淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし





泡沫の、憂しと思ふ





暑くなってきた、というにもかかわらず女子の長袖の人口はなかなか減らなかった。

風薫る皐月――初夏の爽やかなイメージ漂う五月だが、実際に気持ちの良い気候というのはそれほど多くない。むしろ、月の後半にもなれば連日夏日で、雨が降ってもかえって湿っぽくなるだけの状態だ。
まだ気象庁の季節上は春で、制服も冬服。けれども当然、ブレザーをきっちりと来ていられるような気温ではない。
移行期間、という名目もあって、ブレザーどころか長袖のカッターシャツを着てくるような人間さえ、男子部にはかなり少なくなってきていた。運動部所属の生徒は真っ先にそうしたもので、それはもちろん三上も例外ではない。

そう、本来ならもう長袖では過ごしにくい気候なのだ。
今三上の隣りを歩いているは一年中長袖を着ているが、それはあくまでも例外のこと。「日焼けしたくないから」と半袖をあまり着ないのがいないわけではないことくらい知っているが、それですら少数派なのだ。

冷房の効いた室内や電車、早朝などにワイシャツの上からカーディガンなどを羽織っているのはわかる。
けれども今は中間テストの昼下がり。冷房はまだ職員室や校長室、図書館や保健室などの限られた場所以外は電源が切られ、窓を開けても風もほとんどないこの状態で、それでも長袖を着続けている女生徒の数があまりにも多かった。


ふと後ろから二人を早歩きで追い抜いていった女生徒を見て、が顔をしかめた。
それにつられるように三上もまたの視線を追いかけて、彼女の顔をしかめた理由に気がついた。

その女生徒は暑いのか、来ているカッターシャツの袖のボタンを外して少しまくっていた。
そして携帯電話を手にした左手の、その手首に目を引く赤い傷跡が一本、横に走っていたのが見えた。


――俺の彼女、リストカットしてるみたいなんだよ。

昨日だか今日だか、それとも一昨日だか、教室で誰かが焦ったような声で言っていた言葉を思い出す。
しかも、それに同様の意を示して一緒に心配していた人物が1人ではなかったことも。


「亮」

の声で、ふいに三上は思考から引き戻された。
彼女が三上の顔を覗き込むように見上げている。

「考えごとでも?」
「や、別に」
「他の女の子見てぼーっとしてたなんて、ちゃんショックだなー。そんなこと考えてないで、古典文法でも思い出してればいいのに」

プラスチックの白いタグがついた鍵を指先でくるくる回しながら、くすりとは笑う。
その笑みがさっきの少女を見た時の表情と余りにも違うので、三上は完全に思考を払拭しようとした。

けれども今は中間考査の試験期間。
女子部と男子部共用のこの建物には図書館も職員室も入っていて、いつも静かなくせにここ1週間はやたら人の往来が多い。
図書館のある地下、出入り口と購買部のある1階、職員室や進路指導室のある2階。3階になると一見用はなさそうだが、ここにある生徒会室の(何故か)廊下の反対の端には生徒会管轄の印刷室があって、高校生ともなるとそこのコピー機が使えるのだと知る人間も多い。したがって、三上とが見た時にはすでに印刷室の前に列が出来ていた。
いつ鍵が開くかもわからないのに待っているなんて、階下では相当な混雑具合らしい。

「はい、ちょっとすみません、今開けます。並ぶ人は廊下側じゃなくて、階段の方に出てくださーい」

の声でもぞもぞと動き出す人の中にはまだ長袖を纏った女生徒が何人かいて。
気になってその左手首を見るとやはりというか、赤がちらついていた。

「ほーら、やっぱり気になってる」

人口密度が減った廊下、続いて生徒会室へ足を向けながら(言うまでもなく、生徒会に関係ない時にこの部屋を使うのは職権乱用のひとつだったりする)が言った。

「お前は気になんね―の?」
「とーっても気になるけど。どうにも出来ないしねぇ。流行っちゃってるから」
「・・・あれが流行り? リスカが?」
「あ、そうか。もしかしてそっちはまだ知られてないのかもね」

は納得したように言うとひとつ溜め息をついて、「リストカットシール、って言うの」と小声で続けた。

「シール?」
「そう。ボディシールとかタトゥシールと同じ。ちゃんと落とせるし傷なんかもちろん残らない。リストカットは格好いいからしたいけれど、本当に切るのは怖いし痛いのは嫌、傷も作りたくない。そんな愚念と我儘と少しばかりの理性の結果」
「・・・散々な言い方だな」
「私が言うからそう聞こえるのかもね。目的はきっと同じだから、同属嫌悪入ってるのかも」

事も無げにそう言ったくせに、すぐ彼女は自嘲気味な笑みを作った。

「彼女たちはね、わざと見える程度に隠すの。だからそっちにも、彼女がリスカしたとか言ってる人でも居るんじゃない? 教えてあげれば」
「何で見えるようにするんだよ」
「見せなきゃ意味がないからね。言ったでしょ。目的はきっと私と同じ。選んだ方法も同じ。ただ、手段がお手軽になっただけ」

が今度は赤いプラスチックタグのついた生徒会室の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでくるりと回すとまたポケットにしまう。

「可愛いじゃない。彼氏の気を引きたくて、でも実際には手首なんて切れないからあんなので代用してるなんてさ」
「お前、今すっげー毒吐いてんの知ってるか?」
「かもねー。私さ、本来なら負うべきリスクを犯さないでああいうのやられるの、大嫌いなの」

蛍光灯で明るくなったのは雑多な室内。いつでも散らかってるのがここの部屋の特徴で、それでもこれは機能的なのだというのがの言い分だったりする部屋。

「ま、放っとくしかないでしょ。どうせリストカットごっこも飽きるだろうし。ところで亮、私はちゃんと約束守ってるからね。偉いと思ったら誉めて誉めてー」
「・・・お前そういうところホント子供っぽいよな。イメージ壊れっぞ」
「そんな下らないイメージは自分で壊したらいいと思う」
「結構無理あると思うぜ・・・」

そりゃそうだよね、とあっさり引き下がって、机を動かそうとまずは山となったコピー用紙をどかし始めた。その彼女を三上は後ろから抱きすくめる。
の動きが止まった。

「本当にしてないよな」
「亮にこんなに愛されてて、やるわけないじゃない」
「・・・それ、微妙に怖ぇ」

ふふ、とは小さく笑った。



この光景を七海が見るのは、ほんの数秒後のこと。




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++あとがき++
小学生の時、赤マジックで手首に線引いて「リストカットー」とか言ってる子いませんでしたか。その延長みたいなものかと。
あの時は「こいつ馬鹿だなー」くらいにしか思いませんでしたが、リストカットシールの存在を知った時にはなかなか来るものがありましたね。

2007/06/06