ここは都とは違う。
市へ出るのも一苦労で、里に出て食べ物を求めるだけで一日が終わってしまう。
それでも、彼女を置いて庵を出ないわけには行かない。

大納言からの追っ手は来なかった。
都から離れているから、噂は届かない。だから、大納言がどうしているかもわからない。

けれど、確かに長い時間は過ぎた。

が笑いかけてくれるようになるほどに。
彼女が身ごもってしまうほどに。





の 君





この庵は、都の屋敷とは全然違う。

風が吹き込み、雨になれば水が漏れる。
夜、月の明るい晩だと光が隙間から差し込む。

それでも、炎がないから月のない夜は恐ろしいほど暗い。


二人で過ごす夜は大丈夫だった。
けれども、竹巳は里に出ると言ったきり戻ってこない。

怖くて、心細くて仕方がない。
ただ、不安な時にはいつもいてくれた人がそばにいないだけで。
食事をする気にもならず、食べても喉を通らない。

もう三日経ったか、四日経ったか。
時間の感覚もすっかり狂ってしまった。

「竹巳・・・ねえ、どうして遅いの?」

庵にはもう水もない。
一人でここで待ち続けるのは辛すぎる。

外に出てはいけないと言われていたけれど、は一人庵を出た。



山の井の水に手を浸し、溜息をつく。
あと何日待てば、竹巳は戻ってくるのだろう。数えるのも疲れてしまった。

「・・・え?」

ふと覗き込んだ泉の水。
指先から落ちる水滴によって、広がる波紋。
水面に揺れる、女の人影。

「うそ・・・そんな・・・」

澄んだ水に映っていたのは、変わり果てた自分の姿だった。
透き通るように白かった肌は薄汚れてしまっている。
頬は痩せ、血の通った薄紅色も消えた。
気付けば、毎日きちんと手入れされていた長い髪も艶を無くし、手も荒れている。

庵には鏡もなく、自分の顔がどうなっていたかなど知る由もなかった。
けれども、不意に見てしまった今の自分の顔は、昔とあまりにもかけ離れていて。

「いや・・・っ」

醜い。
こんな顔で毎日彼と接していたかと思うと、ぞっとする。


―― あさかやま かげさへみゆる山の井の あさくは人を思ふものかは

紙なんか手元になくて、はすぐそばの木に歌を書き付けた。

気分が悪くて、眩暈がする。
ふらふらと庵に戻ったは、倒れるようにその場に横になった。



***



竹巳が帰ってきたのは、その日の夕方だった。近くでは思うように物が手に入らなくなって、かなり遠くまで出かける羽目になってしまっていたのだ。

? 遅くなって・・・。・・・っ!?」

庵に入って最初に彼が見たのは、うつぶせて倒れているの姿。
慌てて駆け寄って抱き上げても体はすでに冷たくて、何度呼びかけても返事など返ってこなかった。

? 何で・・・」

ふと目をやると、袖口が濡れているのに気付く。

「山の井・・・?」

急いで泉まで駆けつけると、泉の淵の木に歌が書き付けてある。
名前こそ書いていなかったものの、誰が読んだかなど考えるまでもなかった。

・・・」

庵に戻っても、待っていたのはやはり動かないままの
山の井に残されていた歌。
冷たい彼女を抱いて泣き続けても、が目を覚ますことはついになかった。





ある日、旅人が庵の前を通った。
そこで彼が見たのは、眠るように冷たくなった二人。
薄汚れてはいるもののもとは美しかったであろう娘と、そのかたわらで横たわる男の姿だった。


これは、世間に伝わる昔話。






2007/01/22