巷で評判になっていたのは、大納言の姫のことだった。 いわく。 大層な美人らしい。 流麗な文字を書き、素晴らしい歌を詠み、高い教養の持ち主らしい。 管絃にも通じ、七弦の琴も弾きこなせるほどらしい。 そして、大納言はこの娘を帝に贈ろうとしているらしい。 らしい、が多くなるのも仕方がない。誰一人として、その姫の姿を見たことはないのだ。 朝霧のごとく、人を惑わす姫君――朝霧の君、といつしか誰かが呼んだ。 大納言が大切にしている、朝霧の姫君――しかし、いつまでも流れるのは想像された噂だけだった。 朝 霧 の 君 春、桜が満開の季節だった。 当然貴族たちは花の宴を開き、桜の木の下で酒を酌み交わし、池に舟を浮かべ、美しく咲き誇った花を眺めた。 親類、随身・・・様々な人を呼び寄せ、大納言家でも当然、華やかな宴が催された。 しかし、竹巳はその賑やかな輪の中から少し外れた、大納言家の屋敷の建物近くにいた。 彼の身分など到底栄華を誇るこの一族に及ばない。しかし、今この屋敷にいられるのはひとえに彼が大納言の随身であるからだ。 気が利く竹巳は大納言から大きな信頼を寄せられ、だからこうやって広大な敷地の中を一人で歩いていられる。 宴の喧騒から離れようと竹巳が歩いていると、花の宴とは違う種類の管絃の音が聞こえてきた。 引き方は柔らかくも洗練されていて、雅楽寮の役人たちとは全く違った、しかし美しい音色が流れてくる。 気にならないはずがなかった。 その音に惹かれて竹巳がたどり着いたのは、屋敷のかなり奥だった。 きちんと整えられた坪庭で、そこにも見事な桜の木が植わっている。満開の桜は花びらをはらはらと落とし、雪のように光の中降り注いでいる。 管絃の音は、そのすぐ近くの建物の中から聞こえてきていた。 柔らかい音、屋敷の奥の坪庭。 御簾の下から色とりどりの装束の裾が見えている。 ――ここは立ち入ってはいけない場所。 竹巳が即座に踵を返そうとすると、曲が終わったのか管絃の音がふと止んだ。 微かに笑いあう声が代わりに聞こえる。 一陣、強い風が吹いた。 木々は大きくしなり、ざわざわと音を立てて揺れた。 さあっと桜の花びらが舞い上がって、視界は白く覆われる。 御簾が大きく翻った。 「・・・朝霧の君?」 霞立つ春の昼下がり、御簾の影から見えてしまった人は。 大納言には、噂になっている姫君がいる。 ――いわく。 大層な美人らしい。 流麗な文字を書き、素晴らしい歌を詠み、高い教養の持ち主らしい。 管絃にも通じ、七弦の琴も弾きこなせるほどらしい。 そして、大納言はこの娘を帝に贈ろうとしているらしい。 「様、大丈夫でしたか?」 「ええ、平気よ。・・・風に舞う花びらも美しいけれど、こんなに強いのには少し困ったわね」 確かに、彼女の声。 風が治まり、また琴の音が聞こえる。 ――あれが噂の。 視界に立って人を惑わす朝霧の。 初 次 2007/05/22 |