霧が晴れない。
目の前にかかった霧は、晴れるどころかいっそう重く立ち込める。

霧は払おうとしても消えはしない。
掴もうとしても手は届かない。
深く重く、視界は白く霞んで人は迷う。

昼になれば朝霧が消えるなら、朝が終わるのはいつなのか。





の 君





疲れていることは竹巳自身重々承知していた。
それでも、大納言が直々にそのことを指摘してくるほどだとは思っていなかったから、言われた時は驚きを隠せなかった。

「竹巳、どうした。最近顔色が悪いぞ」
「本当ですか? 別に特に変わったところは・・・」
「誰かに懸想でもしたか?」
「いえ、まさか・・・」

ふうむと大納言は顎に手を当てて逡巡すると、竹巳を横目で見て「しのぶれど・・・」と呟いた。


・・・遊んでいる。
大納言は、完全に気付いている。顔色の悪さはそこらに転がっている流感なんかの病気じゃなくて、もっと面倒なもの・・・つまるところ、恋煩いとか言うもののせいだと。
今まで竹巳に恋人がいなかったわけではないけれど、表に出したことはない。だから、普段と違う彼を面白がっているのだ。


――出来る限り隠していたつもりだったけれど。

竹巳には、自分の恋路を自慢して廻るような趣味はない。
それどころか、今まで以上に必死になって隠していたのに。

しのぶれど 色に出でりけり――隠しきれずに、顔色に出ていると。

とうとう、顔に出てしまったらしい。
もの想いかと人が尋ねるまでに。



大納言が知らないのはひとつだけ。
竹巳の想っている相手が自分の娘であるという、その事実。

「あの、大納言様・・・!」
「何だ?」
「あ・・・いえ、何でも・・・」

振り向いた大納言に、言いかけた言葉をつぐんだ。
言ってしまえばどんなに楽になれるだろうとは思ったけれど。

「そうか? まあいい。言いたいことがあったらいつでも聞いてやろう」
「はい」
「その恋のことでもいいぞ。君がそうなるのは珍しいからな、協力してあげたくて仕方がないんだよ」
「はぁ・・・」

「協力」がしたいんじゃない、「遊戯」がしたいのだ。協力はその目的のための手段、もしくは通過点ていどのもの。
それにもし――竹巳が、を欲しいと言ったところで協力などしてくれるだろうか。

大切に、大切に育てられてきた大納言の姫君。
それは帝に入内させるために。

宮中に上がってもし男皇子を産んだのなら、そしてその子が東宮、天皇となるのなら。大納言の地位は一挙に上がる。
何と言っても天皇の外戚。大臣以上の権力を手に入れ、政治を動かすことが出来るのだ。

竹巳の官職は内舎人。大納言に仕えている、一介の下級貴族に過ぎない。
いくら彼女を想っても、一緒になれる身分ではない。

――それなのに。

頭では嫌というほどわかっているはずなのに。
身分差というのは、どうしても越えられない。
どんなに足掻いても、一人の力で動かせるものではない。

――そんなこと。

頭では嫌というほど理解しているはずなのに。


大納言は、竹巳が想う相手が自分の娘その人だと知った時、それでも竹巳を可愛がってくれるだろうか。



「竹巳。出かけるから準備をしてくれ。見事な藤の花があるらしい」
「あ、はい、ただいま」

纏わりつく春の空気を振り払うように頭を振ると、竹巳は下を向いて走り出した。




春なのに霧が立つ。
目の前を白く霞ませて。
はらっても消えず、掴んでも空を切る朝霧が。

もう幾度も昼を越しているのに、まだ朝霧が立ち込めている。




 

2007/05/22