走って走って、ひたすら遠くへ、昼と夜の区別もなく。 疲れ切った自分も馬も叱咤して、とにかく遠くへ。 大納言が黙っているはずがない。 大事に、大切に、これまで育ててきた娘を取られて。 だから逃げた。 都からはるか離れた陸奥の国、安積山のふもとまで。 思い惑わす朝霧の。 でもその朝霧のせいなら、途方に暮れてもいいと思う。 朝 霧 の 君 安積山のふもと、小さくて粗末な庵。 尋ねる人はおろか、通る人さえも殆どいないような寂しい場所。 心配なのは大納言の追っ手だけれども、どうやらまだ追いつかれてはいない。 「姫様」 「・・・どういうこと?」 戸惑いと、怒りと、恐ろしさと。 色々な感情がない交ぜになった声で、一言だけ。 「申し訳ありません、姫様」 「謝罪が聞きたいんじゃないわ。こんなことをして・・・どういうつもりなの」 「申し訳ありません・・・」 「だったら帰して」 明るい月が輝く、山のふもと。 粗末な庵の屋根では、隙間からその光が燦々と入ってくる。 火がなくても、が見える。 美しい錦の着物も、長い黒髪も、白い顔も。 ややうつむいて顔をそむける彼女の瞳に、大粒の涙が溜まっているのも。 「帰して・・・。どうしてこんなことに・・・」 「姫様」 「帝のもとにも・・・」 「・・・っ、帝は!」 の着物をつかむと、瞬時に彼女の手が竹巳を払いのけた。 「さわらないで」 「・・・すみません。しかし帝は」 「何だって言うの? 帝の元にもう何人もの女御更衣がいらっしゃることは知っているわ。でも、それが何だと言うの?」 「姫様?」 「知っているわ。噂だって耳に入るわ。でも、お父様のためですもの・・・っ」 大納言の家に生まれた娘が、父親の政治のために使われるなど当たり前すぎる世の中で。 だから、帝の下へ入内するということも何も疑問に思わなかった。 攫われてまでその状況を変えたいだなんて、少しも考えていなかったのに。 「早く・・・私を帰して・・・」 「・・・それは」 「どうして」 「・・・お帰りになれば、あなたは帝の下へ入内するでしょう。貴女と逢うどころか、見ることも声を聞くことも適わなくなってしまう」 「それが」 かすれた声でが言い返す。 涙が零れ落ちないように、瞬きさえも必死でこらえているのがわかる。 「朝霧の君の噂をご存知ですか」 「・・・朝霧の君?」 「はい。都中で噂になっています。とても美しく、素晴らしい姫君がいると。けれども聞こえるのは噂ばかりで、その姫を見た者は一人もいなかった。それでも、その姫に恋焦がれて道を誤った人までいた」 「・・・・・・」 「人を思い惑わせる姫君・・・朝霧の君と、その姫は呼ばれた。・・・貴女のことです」 なかなか来ない手紙、つれない返歌。 姿を見たことがなくてもその文はいつでも素晴らしくて、どんなにそっけない返事でも相手にされなくても、益々恋焦がれる人は少なくなかった。 「都中の男たちが、貴女に手紙を出しました・・・。実際に届いたのがいくつかは知りません。けれども、誰かの噂を聞くたびに、私は気が気ではありませんでした。帝も含め、貴女が誰の下に行ってしまうのかが不安だったのです」 「だからと言って」 「・・・申し訳ありません。許されることではないと重々承知しています。それでも・・・貴女を愛しています」 の返事はない。 ただ、すすり泣く声が庵の中で聞こえるだけ。 慰めることなど、もちろん今の竹巳に出来るはずもない。 「様・・・本当に申し訳ありません」 彼女を抱きしめようと伸ばした手は、もう振り払われなかった。 初 次 2007/05/22 |