下に降りた後で渋沢に詰め寄った 当然のごとく後回しにされた。 部活直前に言ってもどうしようもないなんて、当然だ。 けれどさすがに、渋沢も焦っていた。 Lacrimosa.29 「で、結局どういうことなんだよ」 練習が終わり、誰もいない、寮までの帰り道。 昼の衝撃は去って、代わりに言いようのないいらだちと不安が残る。それを押さえ切れぬまま、三上が低く尋ねた。 声のトーンも口調も、あからさまな機嫌の悪さを強調していた。 「・・・何が聞きたいんだ?」 「ふざけんな、あの手首の傷は何なんだよ!」 時間が経つほど、忘れるどころか鮮明になっていく。 はっきり刻まれた、細い傷。 それは白い手首に映えて、より鮮やかに赤く、紅く。 「・・・見たんだったな」 「何で教えねぇんだよ!?」 自分だけが知らなかったことが腹立たしくて仕方ない。 ずっと気付かなかったことも、教えられなかったことも全て。 「あんなの、自然に出来るわけねぇ。は、」 「その前に、三上はどうしてその傷を見たんだ?」 決して外に出さなかった傷跡。真夏でも長袖で隠し続けていた。 学校へ行く時は当然、渋沢の前でも、といる時でも、普段なら長袖を着続けた。 けれども。 「あぁ? 屋上で、が立ち上がった途端に倒れそうになって、その時・・・あの貧血もそのせいなのか?」 あの時の彼女を三上は思い出す。 「それであいつ、・・・それなのに俺は何にも知らなかったって言うのかよ!」 「なら聞くが、お前は話をしたところで聞いたか?」 「なっ・・・」 「それだけじゃない。先入観を持たないと言い切れるか? 興味や好奇心だけじゃないと断言できたか? 態度を翻したり責めたりしないと、偏見を持たないと言えるか?」 「それは・・・」 うまく言葉が続かない。 「現に、今三上はの手首の傷を見てかなり動揺してるだろ。それ自体は構わない。の心配をしてくれるのもありがたい。しかし、気持ち悪いと一瞬でも感じなかったか? 気味が悪いと、そう思わなかったか?」 「それは・・・!」 完全に否定することは、出来なかった。 「・・・は何たって・・・・」 「理由はに直接聞いた方がいい」 本人に聞いたって、きっとよくわからない。 聞かれたって、答える方が説明できない。 ならどうして、そんな他人から聞いて理解が出来るだろう。 「は、三上に手首を見られた時どうだったんだ?」 「どうだったって・・・逃げられたぜ」 「それでも多分、は三上を信頼してるよ」 だから気が緩んだ。 注意を怠った。 あんなに気を遣っていたことを。 「もしかしたら、今・・・」 「何だよ?」 「いや、何でもない」 ひとつの予感が頭を掠める。 仮にも付き合っている相手に、隠していたものを見られたら。 しかもそれがリストカットの傷跡だったら。 ――今彼女は、ひとりじゃないはず。 そうだと思いたい。 「お前は慣れてんだな」 「結構長いからな…が手首を切り始めて3年だ。でもやっぱり慣れないよ、あれは」 歩を進めながら、独り言のように渋沢はつぶやいた。 寮の門が見えて、ふたりが口をつぐむ。 のリストカットの話は、格好のゴシップになる。知られたくはない。 「を嫌うか?」 部屋に入る前に、渋沢が一言いった。 「まさか」 「それは良かった」 三上の携帯電話には、一通、彼女からの謝罪のメールが入っていた。 Back Top Next ++あとがき++ 慣れられたら嫌だよ。 血を見て「ふーん」とか反応されたら困るよ。 2006/10/24 |