その人は、いなかった。
あの人も、来なかった。

もう最後だったのだと、ようやくわかった。





の 方





が目を覚まして最初に見たのは、覚えのある天井だった。
淡い色の壁も、閉じられたレースのカーテンも見覚えがあった。

カーテン越しに、窓で切り取った空が見えた。どんよりと曇っていた。
木々の枝がこすれあう音が、ガラス越しに聞こえていた。


身体が鉛のように重い。全身が鈍く痛む。頭がぼんやりして、視界が時おり霞む。目を開けているのさえ、まばたきをするのでさえ、億劫だ。

は目だけを動かして部屋の中を見回す。
濃い色の天井と、淡い色の壁。明るい光はついていない。
影のように小さな箪笥が鎮座している。どこか遠い国の風景を描いた西洋画がかかっている。

笠井邸の客室だということはすぐにわかった。
前にも、いつの間にかここに寝かされていたことがあった。

けれども、今度は何故?

はそれを考えることはしなかった。とにかく、体中がだるくて、重かった。
頭がなんだかぼうっとしていた。

外は暗い。
今は何時だろうか。

倦怠感に動く気をなくしても、ここで寝ていればいいと思うことはできない。
動きたくないと駄々をこねる身体を、は無理矢理起き上がらせようと寝返りを打った。

「っ・・・・・・!」

反射的には動きを止める。
心臓の鼓動がうるさい。胸が詰まって息が苦しい。

腰の辺りで、身体の内部から痛みが伝わってくる。
肩も背中も、全身に打ちつけたような鈍い痛みを感じる。

鼓膜に甦る雨の音。
首筋に残った冷たくて固い感触。
潮の匂いに混じった鉄錆のような匂い。
網膜に焼きついていたのは、真っ赤な傘と倒れた人間、広がる緋色の染み。立ち並ぶ煉瓦造りに、海のざわめき。
暗い倉庫内と小さなランプ、襟を掴んだ手の動き。

それらが暴力的なまでの記憶の洪水となって、頭の中で再生されていく。

「ぅ・・・ぁ・・・」

喉がからからに渇いて、声とも悲鳴ともつかない音がもれる。
敷布を握った右手が小刻みに震える。

嫌。
そんな現実は、嫌。

けれども目に焼きついた光景が、耳に残る卑猥な笑い声が、鼻を突いたにおいが、何よりも体内に残る痛みが。五感のすべてが、に降りかかった現実を肯定する。
どうしても受け入れがたい、悪夢のような現実を。


いつの間にか、窓の外では雨が降っている。ざわつく風にあおられて、水の雫がガラスをたたく。

雨の音。風の音。甦る鉄錆の匂い、緋色の染み。橙色の明かりと、湿っぽい倉庫。
は必死で目を閉じて耳をふさぐ。

動かせない身体、固い床。消えない鈍い痛み、肌をなめる冷気。
走馬灯のように駆け巡る、忌まわしい記憶。
寒くないのに震えが止まらない。目を閉じれば、また悪夢が襲ってくる。

知らぬ間に視界がぼやけ、ゆがんでいる。
目の奥が熱い。頭が痛い。

どうしてこんなことに。

考えるまでもない。
三上の言いつけを守らなかったのは、自身なのだ。
逃げ出せなかったのも、抵抗しきれなかったのも、まぎれもなく自身だった。

亮は、何と言うだろう。
世間の物笑いだと、怒るだろうか。それとも、ただただ軽蔑するだけだろうか。
こんなに大きな問題を起こしてしまって、今までの生活は形にもならずに終わってしまう。

涙がぼろぼろとあふれて止まらない。
それなのに、喉が詰まったように声が出ない。嗚咽にもならない空気が、口からもれるだけだ。

は左手で口元を押さえた。
目に映る世界は暗くて、ゆがんでいて、ゆれている。幾度となく、熱い雫が目じりを流れる。

自分が愚かしくて仕方がない。


こんなに彼が好きだと、今更になって気づくなんて。




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2010/01/01