漢皇重色思傾國 御宇多年求不得 楊家有女初長成 養在深閨人未識 天生麗質難自棄 一朝選在君王側 廻眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色 春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂 侍兒扶起嬌無力 始是新承恩澤時 雲鬢花顔金歩揺 芙蓉帳暖度春宵 春宵苦短日高起 從此君王不早朝 毒娘 外には夜の帳が降りたが、広間では蝋燭がゆらゆらとした炎で辺りを照らしている。 その中で、薄衣をまとい、右手に扇を持って現れたの姿は、天女とでも言い表す他ない。 彼女の薄衣は風もないのにふわふわとゆれ、は足音もたてず、すべるように広間に舞い降りた。 大広間がざわめく。 先程までの演奏の余韻は、あっという間にどこかへ消えてしまった。 ふわり、と薄衣の袖が舞い上がって、わずかな風と共に甘い匂いを振り撒いた。 笠井はその香りに眉を一瞬しかめて、を見つめた。 が放つ香りに、笠井は警戒せずにはいられなかった。 女が焚く香の匂いにいちいち気を遣っていたらきりがないと思っているのだが、何故かその匂いを嗅ぐ度に引っ掛かるものがあった。 彼女が動く度に漂う香り。 甘ったるいが、確かにいい香りだとは思う。 けれどもずっとその匂いの中にいると、笠井などは頭が痛くなりそうな――そうでなければ気分が悪くなりそうな、そんな香りだった。 白檀でもない。伽羅も違う。沈香とも思えない。もっと強くて、甘くて、微かなのに直接脳の方にまで響くような。 そう、例えば昔、小さい頃に一度だけ嗅いだことがあるあの匂いのような。 あれは確か、確か遠い南蛮の―― 「それでは・・・次はわたくしが」 ふと浮かんだ答えは、聞こえてきたの声で頭のすみに追いやられた。 意識を戻すと、どこか憂いを帯びた黒目がちの瞳が、周囲を見渡していた。 一瞬目があって、彼女の瞳が黒真珠のように色を揺らしたように笠井には見えた。 しかし、それはすぐにそらされてしまった。 「・・・皆様にとって、ひとときの慰めにでもなれば幸いです」 そう続けて、は口許に微笑を浮かべると優雅に一礼した。 さらさらと衣ずれの音がした。 拍手は起きない。 は構わず、右手の扇を開いて手首を返した。 扇に焚き染めておいたはずの香とは違う、彼女の甘い香りが仄かに舞った。 まるで、昔一度だけ嗅いだ、あの匂いのような。 鮮やかに目を引く深い紅、華やかに咲き誇る大輪の花、漂う甘くかぐわしい香り、匂いたつような美しさ。 数多の虫をその香りでおびき寄せるが、その花弁に触れただけでその虫たちは死んでいくのだと言う。 その猛毒は花自身をも蝕み、ゆえに一日しか咲くことは出来ない。 そう、それは確か。 確か遠い南蛮の―― ――毒花の匂い。 だから、気になったのか。 ようやくたどり着いた答えを笠井は反芻する。 「漢皇色を重んじて傾国を思う・・・」 鈴を転がすような声で、が詠唱を始める。ひらりと、彼女の衣の袖が舞う。笠井は三味線の弦を弾く。 ふわりと、甘い匂いが漂った。毒花とよく似た、甘ったるい香気が。 いくら好ましくない人間だからと言って、まさか毒花の匂いに香が似ていると思うなんて。 それこそ笠井は馬鹿らしいとも思ったが、彼女に対して鳴り続ける警鐘は止まなかった。 何より、これが始まった途端、渋沢の表情が確かにわずかにこわばったのが、笠井には見えた。 は朗々と唄う。 漢皇色を重んじて、傾國を思ふ。御宇多年求むれど得ず。 楊家に女有り、初めて長成す。養はれて深閨に在り、人未だ識らず。 天生の麗質自ずから棄て難く、一朝選ばれて君王の側に在り。 眸を廻らせて一笑すれば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し。 誰もみな、息を詰めての紡ぐ言葉に耳を傾け、の動作のひとつひとつに目を留めていた。 広間にはの声とのまとう着物の衣擦れの音、それに笠井の三味線の伴奏以外にはなにも聞こえなかった。 高く、低く、流れるようには唄った。 九重の城闕塵煙生じ、千乘萬騎西南に行く。 翠華搖搖として行きて復た止り、西のかた都門を出づること百餘里。 六軍発せず奈何ともする無く、宛轉たる蛾眉、馬前に死す。 「花鉗は地に棄てられて人の収むる無く・・・」 笠井はに目を留めた。 雪のように白く、遠目にも滑らかな肌。雲のように柔らかな髪の生え際。漆黒の髪に揺れる金のかんざし。形のいい眉。 詩に語られた傾国の美貌と同じ姿。 その彼女の頬を、一筋、何かが伝わっていった。 笠井の見ている間に、それは絶えずの瞳からこぼれ落ち、彼女の頬を濡らす。それでも彼女は微笑みを浮かべながら、声を震わせもせずに唄い続けていた。 笠井は、三味線の手を休めずに横目で渋沢を見た。 渋沢はじっと、食い入るようにの姿を見つめていた。 2008/10/19 |