見られて、いる。
目が合いそうになると視線をそらされるけれども、見られている。
視線は怖い。
見えていないのに、どうしてわかってしまうんだろう。





毒娘





視線がつらい。
それがを今一番悩ませていることだった。

当たり前のように部屋まで呼びに来た辰巳の後ろを、音も立てずには続く。途中にすれ違う幾人かの視線をうつむいてやり過ごす。

それは幾筋もの不審の眼差し。男からの好色の眸と、わずかな女からの憎悪の目。
妬み嫉み、憎しみの瞳を向けられると背筋が凍る。


儀式の広間の控えの間に入っても、その緊張は終わらない。数は減っても、人目にさらされる時間も拘束される時間も長くなるからだ。
しかもその内のひとつはごく近くで、射抜くような鋭さをもっての体を捕らえていた。

「おはよう・・・ございます・・・」

いつものように恐る恐るは挨拶を口に出す。実際に彼から何か言われたことはないのに、視線は怖い。
他の人と何が違うのかもわからないのに、とにかくその人は怖い。最初、武蔵森の宴席で見たその時から。

「おはようございます。もうすぐ当主がいらっしゃいます」
「あ・・・はい・・・」

彼はすました顔で座っている。顔色も表情も変わったところを見たことがない。
それなのにふと感じる厳しい視線は確かに彼のものだとわかるのだ。


はその笠井の姿さえも視界に入れないように俯き、廊下側の襖から一番近い場所に膝をついた。
とたん、ちょうど鐘鼓が鳴り響いたのを聞いてはあわてて頭を下げた。


畳と着物が擦れ合う音が頭の辺りから入り、人の通る気配を感じる。このままその人が通り過ぎて決まり切った場所に座ってしまえば、の役目は終わる。
けれども、のすぐ近くで今日の気配は止まってしまった。


「・・・はい」

顔を伏せたまま、は降り掛かった声に対して返事をした。
返事はしないわけにはいかない。嫌な素振りを見せるわけにもいかない。何故なら、相手が相手だから。
けれどもその先を予想して自然と声は固くなる。

彼は、それを緊張のせいだと受け取った。

「どうだ、武蔵森はそろそろ慣れたか?」
「あ、はい・・・」

嘘、だ。
こんなところ、そう簡単に慣れるはずがない。

は多くの人目の前に、これほど継続的に出たことがない。
飛葉ではいつもひとりだった。広くないはずなのに寂しい岩室には、限られた人しか来なかった。
その限られた人たちも、のことを見ようともしなかった。時が経てばまったく来なくなった。どこに行ったのかは知らない。ただ、その人たちは岩室以外のところにも、もう決して来ないのだろうとは思っていた。
あるいは、行灯のぼんやりした光の中で何人もの人と会った。その人たちは皆行きずりだ。翌朝には例外なく冷たくなっている。誰の顔ももう覚えていない。

慣れるわけがない。射抜くような視線と威圧感、それにたくさんの好奇の目。そんなもの、ずっと縁のなかったものだ。

なのに。

「そうか・・・それはよかった」

渋沢の声音が一層柔らかくなる。ずっと彼は、のことを気にかけていたのだ。だからこそ、毎晩のように部屋に呼んでいたのだし、逆に宴席に遅くまで出し続けることはなかった。
その好意は確かにありがたいものであった。渋沢が善意からそうしてるのもわかっている。
けれども、いくら好意とは言え、この場で話しかけられるのはにとってあまり歓迎できるものではなかった。

、これが終わったら少し話したいことがある。いいか?」
「・・・はい」

断れるほどの理由など、にはなかった。
短く返事をした彼女に渋沢はうなずいて、それからは滞りなく進んだ。



***



座ったまま、は人が去っていくのを見送った。
一人、二人と目の前を人が通っていくのを、ずっとうつむいたまま待っていた。

衣擦れの音が遠くなった頃、「」と呼ぶ声で彼女は顔をあげた。声の方向には優しい表情をした渋沢と、済ました顔でを見る笠井の姿があった。

「急で悪いが、今夜何か唄をやってほしい」
「唄・・・ですか?」

渋沢の言葉に、は小さく首をかしげる。
唄や舞など、それこそほぼ毎晩のように宴席で披露しているのだ。今さら頼まれるようなことではない。

渋沢は彼女の疑問を汲んだようで、小さくうなずきながら続けた。

「今日は余興ではないんだ。だからそうだな、いつものように短いものでなくてもいい。笠井にも頼んであるから、細かいことは二人で決めてくれないか」

は横目でちらりと笠井を見た。それに気づいたのか笠井の目が動いたような気がし、はすぐに視線を渋沢へと戻した。
承知致しました、と言ってが上目遣いに渋沢を見ると、彼はほっとしたように何度かうなずいた。



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2008/06/18