高嶺の花なら誇りもあるの 蘇 芳 江戸に住んではいたものの、中心地には来たのは初めてだった。 だから吉原の門を最初にくぐった時、あまりのきらびやかさに驚いた。 一つ一つの店の大きさも。 夜になっても眠らないその街も。 煌々と灯される大量の蝋燭も。 錦をまとったあでやかな女たちも。 全てが浮世離れしていた。 俺の住んでいた所では少なくとも、見られたものじゃない。江戸の中でも田舎だったから。 二回まである建物は一つもなく、寺の鐘撞堂がとても高かった。 日が落ちれば猫の子一匹通らなくなり、不気味な静けさに覆われた。 蝋燭なんか相当な貴重品で、菜種すら手に入らないから魚の油に火を灯した。 幕府の命で着物は綿と麻しか許されず、豪華な刺繍の絹など見たこともなかった。 武士の家柄ではあったけれど、最下層の御家人でお金も無かった。だから、当然吉原で遊べる金は無い。 相手にしてくれる人もいるらしいけれど、その人たちは危険だから近づくなと、誰かから聞いた。 買う気もないのに、俺は専ら、昼間の吉原に通った。 昼の吉原は、夜よりも時間が緩やかに流れる。 不夜城の名を持つ以上、夜のほうが人が多いのだ。 昼見世の時間はとうに始まっていて、鳴る鐘は九つじゃなくて昼の八つ。 大見世の惣籬から見える女たち。 その大店のひとつの前で俺は立ち止まる。 三浦屋と並んで大きな丁子屋。そこには、高尾と並び称される雲居という太夫がいる。 けれど、目的は雲居じゃない。 俺が見たいのは、夕霧という名の格子。 いつもいつも見られるわけじゃない。 毎日通いつめて、三回に一回見られるかどうかで。 それでも今日は、明日は、と通った。 「・・・やあね、また来てるわよ、あの人」 「相当暇なのかしら。仕事もしないで」 「でもお金ないのよね、買う気がないなら来なければいいのに」 惣籬を覗くと、あからさまに眉を顰められた。話し声も、あまり隠す気がないらしい。 「客商売だろ、そんな言い方してて大丈夫かよ」 「買ってくれない人を相手にしても、ねぇ?」 女たちは馬鹿にしたように言う。 こんな時間に残ってるなんて、売れ残りの奴らばっかりだって言うのに。 「向こうでお客様がお呼びですよ」 奥から静かに入ってきて、一人の遊女に娘が声をかけた。 「有希ちゃんとちゃん! これから出るの? 遅いわよ」 「ええ、遅れてすみません」 この二人の側では客が来ないと思ったのか、遊女たちはその場から離れていった。 「嘘ばっかり」 「本当の事言うと怖いじゃない」 籬の側に寄ってきたのは、待ち望んでいた夕霧。それにもう一人、両方ともこの丁子屋で相当な人気のある遊女。 まさか二人いっぺんに見られる時があるとは思わなかった。 「夕霧と・・・柏木? 何で二人とも居るんだ!?」 「大きな声出さないでね」 夕霧がそっと嗜める。慌てて、俺は口を押さえた。 「夕霧と柏木じゃなくてと有希ね。今、本当は休みなの」 「休み? まさか、だって」 「私を今日一日買ってくれたのに来ない人が居てね」 渋沢の旦那様も粋なことしてくれるわね。 二人の娘は顔を見合わせて微笑む。 「でも外見てるのも楽しいし、やっぱりあなた来てたみたいだし」 「本当には物好きなんだから」 「え、俺の事知ってるのかよ!?」 「だってあなた、若菜結人さん、よね。前来て下さったでしょ?」 そう、最初に来た時、その一度だけ誰かのお供でここの座敷に上がった。でもその時は夕霧が相手じゃなかったはずだ。 その時は、確か・・・。 「雲居太夫でしょう? その時は格子だけれど」 「ああ、そうだ。何で知ってるんだ?」 「雲居太夫は私の姐さんなの」 ああ、と納得した。 姉女郎なら、話も聞いてるだろうし顔も見てたのかもしれない。 「それは良いとして」 有希が睨みつける。 「買う気もないのに毎日うろうろされるのは困るのよ」 「なっ・・・」 いきなり切り出す有希を、が心配そうに見つめる。 「こっちは吉原の廓育ち。意地も張りもあるの。誇りも持ってるの。冷やかしのために来ないで」 「有希、でも一応、」 「だって一々相手することないのよ?」 黙って聞いていれば。 「結局は金かよ」 「そう。金を払ってくれるなら身分も職も問わない。吉原はそういう所よ」 でも、それは確かに吉原の理。 誰をも平等に受け入れる代わり、平等な対価を求める。 「なら、買ってやるよ」 「え?」 「俺は今度来た時、夕霧を買う」 いつになるかはともかくとして。 「お待ちしてますね」 そう言って笑ってくれたから、きっと大丈夫。 次は、彼女の客として。 Back Top Next ++あとがき++ 籬は「まがき」ですね。お店の入口の格子の事。 約束が果たされるかはまた別の話です。 冷やかしとかで来る客は「素見」って言うんだけど、これは遊女にとって最低の客らしい(お金が無いから)。 2006/08/11 |