目を瞑ってやりたい。





竜 胆





要請が来た。
かの不夜城、吉原から。
奉行所は、ようやく重い腰を上げた。




「なのに、何で今まで取り締まってこなかったんですか」

この目の前の男は何も答えずにただただそれを流している。
それがまた不愉快で、思わず声が大きくなった。

「榛原は取り締まりの対象のはずです! もう見て見ぬ振りをするところなどとっくに越えてるじゃないですか!」

もとはただその近辺の芸妓が集まっただけの榛原。しかし、今は吉原をしのぐ勢いの興行地となっている。
当然そこには女郎も加わり、榛原は吉原のような花街へと発展した。

風紀上の問題や警備上の理由で、幕府の許可のない遊廓の形成は禁止されている。それは当然、榛原とて例外ではない。
しかし、当の幕府機関である奉行所は、なかなかその取り締まりをしない。
吉原が日本橋から移転したのをきっかけに、無許可の色の街は増え始めた。

「吉原から依頼が来た、だから仕方ない、そうやって動くなんて・・・」

言ってから、周りの視線がここ一点にあるのを見て口をつぐんだ。
こんなことで注目を浴びるのは好きじゃない。

「・・・いいです、俺が見てきます」
「待ちなさい」

出ていこうとしたとたんに呼び止められる。

「・・・・なんですか」
「君は榛原に行ったことがあるかい?」
「ありませんよ! 奉行所の者が違法地帯に行くんですか!?」
「吉原は?」

この男が何を言いたいのかわからない。

「・・・付き合いで一度」

失礼します、と踵を返す。
振り向いて目が合った者たちが、慌てて目を逸らすのがわかった。
俺はさぞかし不機嫌な顔をしていることだろう。



「水野君!」

外に出たところで名前を呼ばれて顔を上げる。
彼は俺と同じく、与力の風祭。入ってから日が浅いが、奉行様の取り立てだ。

「話終わった?・・・・て、水野君!?」
「なんでもない」

やっぱり不機嫌さは相当顔に出ていたらしい。

「ところで風祭、今暇か?」
「え、今? 仕事はないけど」
「なら、行きたい所がある。ちょっと付き合ってくれ」

たぶん断られることはないだろうと思うから、歩きながら適当に支度する。

「いいよ、どこに行くの?」

こいつも行ったことはないだろう。榛原どころか、吉原さえも。

「榛原」

目的は違法の傾城街。





吉原は大門をくぐれば、絢爛豪華な異世界だった。
そして、ここは。無許可のくせにここまで飾れるものかと、不思議になる。それでも、吉原には及ばない程度ではあるけれど。吉原の顔をたてているつもりなのかもしれない。

昼間であるだけあって、人通りはそれほど多くない。夜になれば、ここも賑わうのだろう。
その街の中で、特別目立つ外観でもないのに周りより多くの人を集めている店があった。


店の中はごく普通の茶屋の様で、客も特に変わりはない。それでも感じる、微かな違和感。
落ち着かなさそうに辺りを見回す風祭を尻目に、女中らしき少女に声をかけた。

「仕事中悪いんだけど」
「え、あ、はい! 何ですか?」
「ここの主人に取り次いでくれ」
「玲さんに? ・・・どちら様ですか?」

少女はあからさまな不信感でもって睨んでくる。
予想されることだけど、当然気分はよくない。

「与力の水野だ」
「え・・・・与力!?」

声を上げて、見る間に表情が不安げになる。

「奉行所から・・・何しに来たんですかっ」
「別に摘発ではない。俺一人ではどうにもならないからな」
「なら、なおさらどうして! ここを潰そうとしているんでしょ!」

急に辺りは静まり返った。彼女の声が響いたのだろう。
今日二回目の不本意な注目に、もう嫌気が差してくる。


「あらあら、みゆきちゃんどうしたの? 大声上げちゃって、お客様にご迷惑ですよ」

店の奥から現れた一人の娘。目の前の彼女よりは幾分年上だろう。その娘は客の方にお辞儀をして、何か詫びのを言っている。
数人の客と言葉を交わした後、彼女は目の前にやって来た。

「初めまして、水野さん。こちらの店で働いております、と申します」
「この店は許可が無いはずだ。店主は?」

詰め寄ると娘は笑ってかわす。

「こんな所でその話は野暮ですよ。店主はただいま客人の相手をしておりますゆえ、こちらへどうぞ」

近くで見たその娘は見た事もないような美しい娘で。優雅に一礼されて俺も風祭も言葉をなくした。
目の前の娘はふっと微笑んで、店の奥へ案内を始めた。



お世辞にも広いとはいえない座敷に通され、目の前には略式の会席料理。前では三味線の音に合わせて、娘が二人、雅やかに舞っている。
一人は先ほどの。もう一人は、有希というらしい。どちらも、えもいわれぬ美しさと艶やかさだ。
舞が済むと、二人は席の近くまで寄ってきた。


「店主が来るまでお待ち下さい。芸妓も居ますし、必要ならお酒もご用意いたしますわ。・・・でも、必要なさそうですね」

風祭が上ずった声で「は、はい!」と返事をする。
それを見た二人がくすくす笑い、有希が訪ねてきた。

「お二人とも、榛原に来るのは初めて?」
「榛原はな」
「まあ、では吉原にはいらっしゃったりするのですか?」

代わってが訪ねる。
風祭は緊張でほとんど喋らないし、適当に答えた。

「風祭さん、そんなに固くならなくてもよろしいのですよ。・・・吉原はここと違って活気がありましょう」
「うるさい位だよ。ああいう所は好きじゃない」

にべもなく答えたのに、この娘は微笑みを絶やさない。


「ところで、ここの主人は」
「お客様の方が立て込んでるようですね・・・水野さんもお仕事大変ですね」

この女、わかってるくせに。
与力という肩書きで、色町が好きじゃないのにわざわざここへ来て、店主と話したいという目的なんて。

「もう分かってるだろ」
「そうかもしれませんね」
「なら俺を追い出せばいいさ。話がつけば、あなたたちは吉原に送り込まれる。分かってるだろ、その話だ。何で追い出さないんだ」

は俺を見据えて、静かに口を開く。

「追い出したりはいたしません。どんな方であれ、来て下さったのだから」
「それなら別にいい。でも、商売女は嫌いだ」

さすがに少し言い過ぎたと自分でも思う。重くなった空気に、風祭がおろおろとしている。
有希が何か言いたそうにしたのを、が止めた。

「嫌っている方に好きになるようにすることは出来ません。それはいたしかたないこと」

でも、とは続けた。

「私たちは体を売るのが仕事ではなく・・・日常から離れた場所を提供することが仕事なのですよ」

だから、体目当ての客は相手にされない。それでも、客は減らない。
吉原も、榛原も。

「お帰りになりますか?」

がそっと訊ねてくる。
黙ってただ頷いた。ほとんど手の付けられていない料理は、もう冷め切っている。

「・・・吉原から要請があった。近いうちに俺か、誰かがまた来るだろう」

彼女達は一瞬驚いた顔をして、すぐにまた微笑んだ。

「お気をつけて。また、縁があったらここにいらして下さいね」


彼女の声を背に受けて。
話をする必要は、もうない。



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++あとがき++
与力は中〜下級武士です。同心は町人だけど。
竜胆はりんどう、ですよ。あの青紫の花ね。

2006/08/02