何度も通ってくれるあなたへ。 潤 駕籠が辺鄙な道を進む。 乗っているのは、一人の男。駕籠に乗れるからには、相当な金持ちだ。 闇に溶けそうなほどの黒い着物は、明るい所でよく見ればその仕立ての良さがわかるだろう。 手には銀製の煙管。羅宇の部分には細かな象嵌が施されている。控えめに主張するその象嵌は見事としか言い様がない。 素足に履いた下駄の鼻緒もまた絹製だ。 だらだらと続く道を進み続けて、ようやく大門につく。 吉原の入口は、唯一ここだけ。 周囲を堀で囲まれた、広大な傾城の街への入口。 質素な外観とは裏腹に、門を抜けると豪華絢爛、きらびやかな享楽地。 さらに男は中央の仲の町を進む。 たまに声をかけてくる遊女がいるが、鼻にもかけない。 こんな安っぽい女を相手しに来たんじゃないと、言わんばかりに。 夜見世は始まったばかり。 あちらこちらで蝋燭が灯り、夜とは思えないほどに明るい。 通りにある手近な茶屋に入り、目当ての者の名を告げる。 当然、そこの茶屋で金を落とすこと、呼びに走った者に心付けを渡すのは忘れない。 何度足を運んだかは関係ない。そうやって金を供給できる者が、吉原の花魁の客なのだ。 しばらく待つと、使いに走った者がまた駆け込んでくる。息を切らし、髪はゆるんでいる。 確かに蝋燭の炎で多少温度は高いのだろうが、今は夏と言うほどではない。 奥から主人がへらへら笑いながら出てきた。客相手の商売のくせに、不愉快な笑い方。金になりそうな話が来たのだろう。 「旦那、ご指名の花魁ですがねぇ、もう座敷にあがってまして」 ひとつ、紫煙が吐き出された。 男は無言で先を促す。 「へえ、それで妹女郎を用意いたしますが」 「ふん」 男が鼻で笑う。 さっそく代金の話をしようと近づいてきた主人に向かって、悠々と煙を吐き出した。 当然のごとく怒りだす主人を、愉快そうに見ている。 「な、何をっ…」 「譲らせろ」 一言低く告げ、主人が怯む。 「譲らせろ。誰だか知らねぇが向こうに言っとけ。三上亮が来たから代われってな」 慌てふためいて主人が遣いを出し、謝罪する様子を、やはり彼は愉しそうに眺めていた。 「お待たせ致しました。三上亮さん、今晩も宜しゅう」 座敷に場所を移し、酒を飲んでいたところでが入ってきた。 夕霧の名を与えられた、吉原一の遊女。 そう、あの姉女郎・雲居太夫よりも。 「先客がいたんだってな」 「ええ。でももちろん、あなたの方がずっと好き」 「よくもまあ舌が回るな」 どの客にも言ってるんだろ、と三上が嗤う。 は変わらず微笑んでそれを聞いていた。 「ああ、そうだ。太夫になったって?」 「あら、お耳が早い。今日付けなんですよ。正式には明日発表でしたのに」 「ちょっと聞いた。まあ、そのために来たんだしな」 「これからも、どうぞよしなに」 杯を交わし、祝儀を付ける。こうして何かある度に蒔かれる花の袋。 「ところでこういう噂を知ってるか?」 「何か?」 「夕霧格子・・・じゃねぇな、太夫の情夫の話」 言ってから、三上はの表情を探る。 客に春を売る商売である以上、遊女の恋愛は禁止事項。自分の恋人の話だ、と言われているのに、彼女は顔色一つ変えずに続きを促した。 「雲居の常連の付き人らしいぜ。歳は夕霧と同じくらい。まあ、それは噂と置いておいて」 言葉を切って、杯の酒を飲み干す。 空になった朱塗りの杯に、が新しい酒を注ぎ込んだ。 「他にも聞いたな。夕霧太夫にすでに身請けの話が来てる、とかな」 「どのお話も初めて聞きました」 「まあいいさ。どうせ雲居はもうすぐ身請けらしいしな。は雲居太夫を継ぐのか?」 「いいえ、太夫に上げて頂きましたし、夕霧は夕霧。三浦屋の高尾と違って、雲居は襲名ではないので」 三浦屋の高尾は、商売敵といってもいい。あちらも非常に高級な遊女である。 むしろ、京や大坂まで行けば、雲居よりも有名なのではないか。 「へぇ・・・」 芸妓の舞を横目で見ながら、また酒を口に含む。 の方が舞は巧いのだが、それでもやはりこの店は全てにおいて申し分ない。 舞が終わり、若い男が座敷に入ってきた。の専属というわけではないだろうが、この男ともすでに馴染みである。 「三上さん、もうすぐ夜の五ツですが・・・、いかが致しますか」 「今晩は泊まる」 もうすぐ夜五つの鐘が鳴る。宴も終わりの時間。夜の客となるかどうかは、この時に決めなくてはいけない。 「では、隣の部屋に用意させます」 隣の部屋はの部屋。上級の遊女ともなれば自分の部屋と座敷とを与えられているのだ。 「今晩は泊まって下さるのね」 「たまにはな」 「私はいつもあなたを待っているのに」 「傾城に誠なし、だろ」 ふふ、とが笑う。 傾城――つまり太夫の言葉には意味がない、ということ。 彼が言うのには慣れている。冗談半分で言ってることも知っている。 誠なしの言葉をどの客にも囁いてきたのは、変えようもない事実。 鐘の音が聞こえる。 江戸一の不夜城――吉原にも、もうすぐ夜がやってくる。 街は眠りにつく。 部屋の蝋燭をひとつ吹き消して。 夜の帳が下ろされた。 Back Top Next ++あとがき++ ま、普通はこんな話はしないでしょ。 煙管は「キセル」、羅宇は「らお」、象嵌は「ぞうがん」と読みます。羅宇ってのは、キセルの、両端の金属製じゃない部分のところのこと。 吉原では黒い着物に質素な模様、髪は少し崩れた感じで、でも金は使っている。っていうのが人気だって聞いたので、黒。だから三上。 三上は着物でも黒似合うだろうなぁ。 2006/08/05 |