私を忘れないで





勿 忘 草





。今日は大切なお客様がいらっしゃるから、あなたもお座敷に出なさい」
「はい」

引込だった私は、十の頃から客の前には一切出ず、楼主から芸事全般と教養を教え込まれていた。
次の高位遊女として、ここに務めるために。
それなのに、よほど大事な客なのか、その日は座敷に上がることを許された。



「おひさしゅうございます。ようこそいらっしゃいました。今晩もどうぞごゆっくりしていって下さいね」

襖が開いて、姐さんの声が終わると共に頭を上げる。
その時、初めて客を見る。
一人と目が合った。
遊廓の中は女ばかり。滅多に見ない同世代の少年。驚いて目を背けても、心臓の鼓動は速いまま。

「ああ、待っていたよ。そちらのお姫さんは?」
「ええ、と申します。私の妹になりました。ご紹介しようと思って、上がらせたのです」

そこでもう一度頭を下げ、あいさつをする。

と申します。どうぞ宜しくお願いします」
「これと同じくらいかな」

客は、自分の隣に控えていた、その少年を指した。

「笠井・・・竹巳と言います」
「こいつは十六だ」
より少し上ですね」

大人達は笑いあっているけれど私と彼はそういうわけには行かなくて、どうすれば良いのか解らない。
一通りの芸を見せ、花代を頂いて下がった。




その客は姐さんの常連だったから、彼とも頻繁に会うようになった。
でも、それだけ。
彼は客ではない。会うことしか出来ない。
会って目を合わせて微笑み合って、それだけ。


十分幸せだったけれど。
結局、私は十六で花魁になり、客を取るようになる。


彼は花魁を買えるほど、金を持ってはいなかった。
姐さんの客である、彼の主人は、姐さんが目的であって私のところに声はかからない。

それでもたまに見かける事はあったけど、ついに主人が姐さんを引き取り、彼を見る事もなくなった。
客は善い人だったから、引き取ったのなら、姐さんは自由の身。ここで働く必要もない。主人も、ここに通う必要はない。屋敷に居るのだから。
その上、将来を見込んだのか、私を引き取りたいと申し出る客も出始めた。半分くらいは冗談だったようだけれど。


もう、彼は来ない。彼とは逢えない。そう思っていたのに。



。そこ見て」
「何、有希。私疲れてるの・・・まだ日が昇るまで大分あるのに」
「雨が降ってるんだから、日も何も今日は関係ないって。それよりお客様よ、外に。笠井竹巳。傘も差さないで」
「えっ!?」

跳ね起きて外を見ると、廓の外の柳の木の下に。

「行ってきなさいよ。いつ逢えるかわからないわよ?」

有希の言葉に背中を押されて、彼の元へ近寄る。



「・・・竹巳さん? 他にも誰かいらっしゃるのですか?」
「いえ・・・気のせいですよ」

周りを見渡す限りでは確かに人影は見当たらなく、彼もまたそう言った。

「風邪を引きます」
「急いでいたもので・・・聞きたいことが有って来ました」

瞳をしっかり向けられて、静かに告げられる。

「日本橋の渋沢様の話を聞きましたか?」
「よく通って下さるお客様ですけど、特には・・・」
を正式に身請けすると、妾として引き取ると決めたそうです」

一瞬、心臓が止まった気がした。

?」
「あ、いえ・・・初めてそのお話を聞いたので驚いてしまって」

嘘。そんなのって。

「お受け・・・するのですか」
「・・・女将さんの御意志のままに」

彼も私も押し黙って、沈黙が訪れる。
買われた身である以上、お金と自分が引き替えである以上、雇い主に自分の意志を通すことなど出来ないのに。
廓から出られるという嬉しさと、もう決して彼に逢えなくなる悲しさが入り交じる。

「俺は」

竹巳が再び口を開いた。

「俺は、を買えるほど金を持っていない。引き取ることはおろか、ただ客として座敷に呼ぶことも出来ない」
「ええ・・・」

ただ突き付けられた事実は、これからどうする事も出来ない。

「渋沢は・・・大店ですが、色々悪い噂もあります。裏でやっている事など、口には出せないほどに」
「それは・・・少しは聞いています」
「でも、あなたの女将さんは」
「ええ、もう決めてるでしょう」

あの女将さんはもう。渋沢なら、金に糸目は付けないだろうから。
たとえ千両二千両でさえ、彼は出すに違いない。

「お時間を取らせました・・・おめでとう、。幸せになれるように」

最後に告げて背を向けた彼の腕に縋りついた。
身請けなんて、喜ばしいことのはずなのに。廓からこんなに早く出るなんて。
本当にそうなのに、涙が止まらなかった。

彼はそっと私を抱きしめてくれた。
涙でかすんだ視界の向こうで、黒い影が二つ、揺らいだのが見えた。




それから先は、鮮明なくせに曖昧な記憶しかない。

離した体。別れを告げた唇。静かな微笑。
飛び出した二人の男。銀色に煌めいた刀。鈍い音。

崩れ落ちる彼、往き去る男、立ち尽くす私。

全て色のない世界。

闇が明けて、有希がこれを見つけるまで。



雨に当たり続けたせいでそれからしばらく、高熱と咳で私は寝込み、身請けの話は消滅した。
代わりに、玲さんという引き取り手が浮上する。
問題を起こした遊女に構ってる余裕はない女将さんにとって、この話は願ったりだったに違いない。それも相当高額で、有希と私と二人とも。

起き上がれるようになった時は、全てが決まった後。最低限のこと以外、何も教えてくれなかった。
二人の男のことも。
身請けの経緯も。
笠井竹巳が葬られた場所さえも。


吉原にはもういられない。


在りし日の本物の恋。



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++あとがき++
『引込』…「引込禿」の略。読みは「ひきこみかむろ」です。遊女見習いの事。楼主はその店の店主、女将さんとでも思って頂ければ。
千両でえっと・・・数千万?
億、はさすがに行かないと思うけど、二千両だと行くかな。
ちなみに、一両あれば庶民は1年暮らせるそうです。
遊女は若いほど、経験は浅いほど、美人で教養あるほど、高額になります。

2006/08/08