行こう。
あの港へ。
今日こそ、帰ってくるかもしれない。
ずっと待っている。





の 方





雨の中、少女は薄暗い通りを歩いていた。
手には二本の傘。
一本は雨よけに普通に差し、もう一本は大切そうに抱えている。

雨の日の港は、人が少ない。
そんな日は、この街は日本でなくなる。


「How much are you?」

酒の臭いが混じった吐息が、鼻につく。
肩をつかまれて、耳に入った言葉はここの言葉ではない。
港に近い外国人居留地。そこでは、日本人が異邦人に見えてくる。

黒い髪、黒い瞳の日本人の少女。
格好の餌食だ。

だから、大人たちは彼女に言うのだ。
ここにあまり近づいてはいけないと、何度も。


・・・、・・・!」

駆け寄ってきた少年が、の肩にある手を払いのける。

「She isn't such a human being. 、戻ろう」

少年は男を睨みつけると、の手をつかんで走り出した。




「竹巳、待って。私は港に・・・」

口を開いた少女を、竹巳は見据える。

「雨の日は居留地に近づかないように、と。 薄暗くなったら一人で出歩かないように、と。 あれほど言ったのに、何でまた!」
「ごめんなさい。 でも、」
「お兄さん、を?」

は小さく頷いた。



一月前、あめりかから帰ってくるはずだったの兄。
しかし、帰りの船が大しけに遭って、彼はそのまま行方不明となった。
遺骨も遺品も上がっていないが、おそらく、助かってはいない。
助かるような規模の嵐ではなかったのだ。

はそれから、帰らぬ兄を待ち続けている。
毎日のように港に通い、今日か明日かと。


のお兄さんは」
「まだ何も見つかってないわ!」

彼女が珍しく声を荒げた。
竹巳が驚いて押し黙る。

「まだ、わからないもの・・・」

小さく、呟いた。

彼女だって、本当は分かっているはずだ。
あの船の乗組員の中には、すでに遺体が上がっている者も居る。
しかし、生き残って帰っている者は居ない。

行方不明か、死体が見つかるか。
もう、そのどちらかしかないということを。

兄の死の話題を頑なに避けるのは、何より彼女が死を認めている証拠。
自分で認めたくないだけで。



「・・・、わかった。でも帰ろう。雨も降っているし、夜の居留区は危ない」

また、さっきのような者が出るとも限らない。
ここに来ている者がみな紳士というわけではないのだ。
彼女の何も言わないのを肯定と取り、手を引いてさっさと立ち去ろうと、そう思っていた。



少し離れた所から、怒鳴り声が聞こえる。
こんなにも強い雨なのに、喧嘩らしき音がしている。
様々な国から人が集まってくるから、ここでは争いなんて日常茶飯事。気にしている場合ではない。
実際、いつもは全て無視して通り過ぎている。
それなのに、今日の声は特に大きくて、思わず振り向いてしまった。

竹巳につられたのか、もその方向を見やる。
その視線が、ある一点で留まった。

「・・・・兄さま?」
「えっ?」

いるわけがないのに。

「兄さま・・・っ」
「ちょ、!」

傘も捨てては走り出す。


だめだ。



彼女を行かせては、いけない。



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2006/05/28