その人は言った。
この人は聞いた。

それだけで、本当に何もかも決まってしまった。





の 方





ドアを叩く音と人を呼ぶ声を聞き、が窓から外を見ると立っていたのは笠井の家の使用人だった。それが誰か気付き、は慌てて表へ向かう。
使用人といっても下働きではなく、立派な服を着て紳士然としている。彼は、竹巳の父親が生まれた頃から仕えているらしい。

そんな人が、たとえ伯爵と言えども傾きかけ、人が近付かなくなっていたの家に来たのは、少なくともにとっては驚くようなことだった。


「これはのお嬢さん。お嬢さん自ら迎えてくださるとは光栄ですね」
「ありがとうございます。ところで、御用事は何でしょうか。父を呼んだ方が宜しいですか?」
「お願いします」
「では、こちらで少々お待ち下さい」

家の中に招き入れ、少し奥まった応接室に通す。
そっと扉を閉めて部屋を出ると、極力音を立てないようには早足で廊下を駆けた。

ハナを見つけて、お茶でも出させて。
それから父親の部屋へ行って。

まだ朝だから、お酒を飲んでいなければ良い。

そう思いながら。








いつも通りのその扉は、いつも通り暗いチョコレート色で、いつも通り威圧感を与えてが入るのを阻んでいた。
ノックするだけで息のつまる思いがする。
けれども客が来ている手前呼ばないわけにも行かず、はその扉を叩いた。

「・・・お父様?」
「ああ、入れ」

返ってきた声にホッとする。
よかった。今日はまだ酔っていない。

重い扉を開けると、よく転がっていたウィスキーの壜はない。
少し色褪せた赤い絨毯が覗いていた。

その中央付近にある机に、は見たことのないものを見つけた。
見るからに高そうなラベルが貼られた酒瓶。栓はもう開いている。
白い布に包まれた紙幣の束。縁遠かったお金というもの。

「これ、どうなさったんですか・・・?」
「ああ、貰ってな。で、何のようだ?」
「お客様です。笠井の方から」
「やっぱり今日来たか」

予想していたかのような返事をして、佳一は席を立つ。
見ると、服装もだらしなく着崩していた室内服ではない。
本当に来るのを予期していたらしかった。


はここにいなさい。先方と話が終わったら、お前にも話がある」

そう言い残して、佳一は部屋を出て行った。



そして十五分経ったころ、言ったとおりに佳一は帰ってきた。
僅かに明るい表情の彼に、は何を言われるかと身構える。

「笠井のところは婚約を破棄するそうだ。身を引いたわけだな。喜べ、これでお前はマルサス商会の社長夫人だ!」
「なんですって!?」

愕然とする。
本当に。
本当にこんなに早く、その話は決まってしまうようなものだったのかと。
嫌になるほど考えが頭の中を巡る。

「何だ、嬉しくないのか。金には困らないぞ。それに父さんが起こしていた事業の建て直しの資金も提供してくれるらしい。まあ、笠井の所も息子を出せなくなったんだろうし。勘違いだろうけどな。これで安泰になった訳だ。爵位はこの際もうどうでも良い。家はどうせつぶれるんだ」
「私・・・は」

あの人の元には行きたくないと、言いたくなって声を詰まらせる。
言ってどうなるのか。
どうにかなるのか。

――なるわけが、ない。


少し我慢すればいい。
ほんの少しだけ我慢して。
父の望みと義理を果たして。
それは親が望んで決めたことなのだから。


――それで。

命さえなくなってしまえばいい。


部屋を出て、そのまま雨の外へと逃げるようにとび出した。



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2006/12/25