ひらりひらりと何かが舞った。
雨の中でもなお鮮やかな色が目に映った。
濡れて空へ行けなくなった蝶が、地上付近であがいていた。
行く先には、きっと未来でないものが待っている。





の 方





薄暗く色の乏しい景色の中で、渋沢は赤い色を見つけた。
雨で重くなってしまったのか、ふわりとした軽やかさは無く、代わりに強風にあおられて懸命になびいていた。
あの鮮やかな緋色、織り込まれた菊の花。
この国の女性用の、それも身分の高い人の着物の色。

天候が悪くなっていく中で、人々は皆足早に家に戻ろうとする。
けれど、その鮮やかな色が進む先には港以外何もない。
渋沢は居留地へ帰ろうとしていた足を止めて、そちらを見やった。

「Katsuro! Hurry up!」

一緒に居たチェンバレンが大声で呼びつける。
傘も役に立たなくなってきた強い雨、早く家に帰りたいのだ。

「Sorry...」

一旦彼らのほうを向き、短く返事をする。
再度渋沢が振り返ると、その着物が翻って曲がり角へ消えたのが見えた。

――あの先にあるのは、もう本当に港だけ。

この嵐の迫る中で、港に近付くのは自殺行為だと、この街の人なら誰でも知っていることなのに。
それなのにひらひらと、重力に逆らえない着物の袖が視界から離れない。

立ち止まって動かない渋沢に向かって、もう一度チェンバレンがその名前を呼んだ。

「Katsuro...!」
「I will go later」

振り向いて渋沢は走り出す。あの鮮やかな色はもう見えない。
チェンバレンが何か叫んでいたが、構ってる余裕はなかった。
今日の海は危ない。







見失いながらも港の方向へ慎重に歩を進めると、確かにそこには数分前に見た鮮やかな着物の色があった。
袖には繊細な菊の模様。朱色の帯揚げ。
雨に濡れたそれらは、無彩色の世界で一際鮮明に色づいている。

緋色のかんざし。漆黒の日本髪。
けれども髪はほつれ、うなじに一房、こぼれ落ちている。


ふらりと歩く後姿には見覚えがあった。
緋色のかんざしにも、彼女が着ている着物にも、全てに見覚えがあった。

「...?」

一歩近付くと、後ろを見ているわけでもないのに彼女がふらりとまた一歩進む。
開けた港は風が強く、傘を持つ手に力が入る。

彼女の着物の裾と袖が、また一段と大きく翻った。

...!」

人違いとは思えない。
ならば彼女もこの海にいては危険なのに、彼女もそれをわかっているはずなのに、おぼつかない足取りでより危険な方へ向かってしまう。

強い風と大きな波の音。
彼女が振り向かないのは、声が聞こえないだけではない。

!」

今にも海へ落ちそうな様子の彼女の元に駆け寄って、渋沢は袖を掴んだ。それによって ぐらりと傾いだ体を慌てて支える。
どれくらいの間雨に打たれていたのだろうか、着物は水を存分に吸っていて、支えた腕に冷たい感触が伝わる。
彼女の着物の懐からかすかに香の匂いがした。

がゆっくりと後ろを振り向いて、渋沢と眼が合った。
口元がうっすらと笑みを浮かべ、渋沢の背に薄ら寒いものが駆け抜ける。

「兄様・・・」

の唇がゆっくりと動いた。あまりに小さく、聞き取れなかった渋沢が不思議そうな顔をして彼女を見つめ返す。

は笑みを一層深くして、彼に体を寄せた。
香の薫りが迫って鼻腔をくすぐる。
白いうなじが目の前にあって、渋沢は慌てて目を逸らした。

「兄様、いつ帰ってきて下さったの・・・?」

聞き慣れた声とは違う声色に、理解できないその内容に頭が混乱してくる。
いつもとは明らかに違う調子で、は何度も何度も渋沢に話しかけてきた。
それに対して何と答えれば良いのかわからずずっと黙っていると、が体をわずかに離して彼を見つめた。

一瞬見ただけでわかる、焦点の曖昧さ。
彼女が見ている先は渋沢本人の顔ではなく、そのどこかもっと遠くの自身の記憶の中。

「ねえ、お兄様・・・」

再び囁いたの声は、ぞっとするほど冷たい。
黒い瞳が、寂しげに揺らいだ気がした。

「兄様、どうして答えて下さらないの?」
・・・!?」

の体から力が抜けて、体重が全て渋沢にかかる。
水を吸った着物がずっしりと重くのしかかり、肌に触れた部分が体温を奪っていく。
触れた頬も掴んだ手首も、全てが氷のように冷たい。

「どうして・・・」

ぽつりと日本語が漏れる。
彼女を抱きかかえてしばし考えると、彼はそっと立ち上がった。



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2006/12/30