見なくてもわかるものはある。
聞かなくてもわかるものはある。
触らなくても感じるものはある。

解ってしまうのが恨めしい。





の 方





しばし、二人はその場で動かなかった。

正確に言えば・・・の方は動くことが出来なかった。
蛇に睨まれた蛙とは多分このことで、直接見ているわけじゃないから睨まれているとは言えないまでも、睨まれていることを感じ取って彼女は立ちすくんでいた。

彼が立っているのは本当にすぐ隣り、視線だけを動かしたのでは顔は見えない。
どうしようもない威圧感が、二人の間のわずかな空気を介して伝わってくる。

動けない。
体中が石みたいに固くなっている。


ポンと肩に手を置かれて、はびくりと体を震わせた。
条件反射のような反応でしか動かない体は、何故か内部の動きだけは活発だった。
心臓はどくどくと音を立てて鼓動し、血液を押し出しているのがじっとしててもわかる。
胸のみならず、指先でも、首でも、耳からも鼓動は聞こえてくる。
それなのに瞬きすら思うように出来ない。まして、首を動かして、亮の表情を伺うことなんて出来なかった。


「奥様、こんな遅くまで一体どちらへ?」

嘲笑うかのように、二回目の三上の台詞が飛んでくる。
暗い階段へ視線を向けたまま微動だにしないを見て、彼は。

笑っているのか。
怒っているのか。

心臓の音が邪魔をして、声色までは聞き取れない。
聞き取れていたとしても、そこから判断できるほどのゆとりは持ち合わせていない。

ただ、怖い。
口調は優しいのに、何故だか怖い。


「黙っていられても分からないんですけどね。それとも・・・」


――どこか私には言えないような所にでも?


「・・・っ」

はようやく三上の顔を見た。
にやにやと薄く笑みを浮かべた顔が、すぐ傍にある。

答えられないのを愉しんでいるのか。
怒りを笑みで隠しているのか。

どちらにしてもに不利であることに変わりはない。


「やっと向いたな。で? こんな遅くまで、勝手に外ふらついて何処行ってたんだ?」
「・・・何処だっていいでしょう」

どうせ知っているくせに、とは心の中で付け加えた。

今日だっての傍には護衛が張り付いていた。それでまさか連絡が一切行っていないなんてあるはずがない。
最初から答えなど期待していなかったようで、三上はに相変わらずの笑みを見せている。

「じゃあ、話を変えてやるよ。実は日本橋で今日は目立つ二人連れがいたんだぜ」

何を三上が言わんとしているのかがわかって、は内心不安に思いながらも次の言葉を待つ。

「男と女で、男の方はやったら背の高い、茶髪の異人だ。で、女の方なんだが・・・」

がどんな反応をしているのか、楽しむように三上はを見た。
それに気付いてかそうでないのか、はただ前を見たまま微動だにしないでいる。

「美人の女だったぜ。まだ二十歳かどうかってくらいだな。背は高めで、藤色の着物に芥子色の帯だった」
「・・・何が言いたいのかしら?」
「わかってんだろ?」

薄い笑みがふっと顔から消える。

「今日、何処へ出かけていた?」
「・・・・・」
「答えられません、ってか?」
「・・・何で知っているの? 仕事は?」

否定するのは無理だ。
きっぱり諦めては三上を見る。

「俺には知り合いがたくさんいるんでね」
「知り合いは多くてもお友達は少なそうね」

大して意味のない嫌味を返すと、「可愛くねぇな」と三上は言った。

「渋沢か?」
「・・・それが?」
「会いに行くな、と言ったはずなんだけど」
「お礼も言わないのは失礼じゃなくて?」
「・・・おまえ、立場わかって言ってんのか?」

「立場?」と怪訝そうには聞き返した。その様子に、三上は益々不機嫌そうな表情になる。

「立場だよ。あいつと一緒に歩くってのはどういうことだかわかってんのか? の娘で三上の妻がこともあろうに異人と並んで、しかも人の多い日本橋だ。どんだけの事だかわかってんだろ!?」
「・・・それは悪かったわ。でも」
「そんなに佳明が忘れられねーのかよ」

――どうして、その名前を今出すの?
心の中で叫んでも聞こえるはずはなく、外に聞かせる気もない。

彼と、彼は。
彼は気付いているのだろうか。

「おかしいぜ。おまえも、佳明も。兄妹なんか越えてる」
「・・・兄様とは関係ないでしょう」
「関係ありそうに見えるぜ。少なくとも、お前が渋沢を見る目は素通りしてる」

そんなの言わないで欲しかったのに。
どうして彼はそんなことに気付くのだろう。


は踵を返して階段を早足で上っていった。
どうして三上が日本橋のことを知っているのか、渋沢を見つめる目を知っているのか。

そんなことも確かめられずに。




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2007/03/11