大変なんだね。 疲れてるんだね。 だから私は何も言わない。 あなたが何をしようとも、黙っているだけ。 ねぇ、お父様。 暁 の 方 家は大きい。周りの家と比べれば、遥かに。 文明開化の波に乗って西洋趣味の佳実が大改築をしたため、総煉瓦造りの豪奢な館。 随分思い切ったことをする人だ。 作り主亡き今も、その館は日本の家としては珍しい。 「お嬢様、また港へ行ったのですね。あそこは女一人で歩く所じゃございません。また、竹巳様にお世話になったんですか?」 「ごめんなさい。それで・・・お父様はどちらに?」 「佳一様は自室で・・・」 「またお酒を飲んでいらっしゃるのね」 一瞬、寂しそうな表情になる。 「お客様ですか?」 「ええ、こちらの方。日本語がよく話せないらしいのだけど、お父様に用があるらしくて」 が後ろを振り向いて手招きすると、すぐに青年が現れる。 日本人より色素の薄い茶色い髪、茶色い瞳の。長身の青年。 出迎えていたその女中頭は少し顔をしかめた。 「日本語も話せないのに、佳一様に?」 「ええ。・・・でも、悪い方ではないと思うわ。竹巳と少し話もしてたし・・・」 露骨に嫌そうな顔をする女と、それを説得する少女。 先に折れたのは、女の方だった。 「わかりました。でも、どうなっても知りませんよ」 「ありがとう、ハナさん。では、えと、シブサワさん? ここで待っいて下さいますか」 竹巳がすぐさま英語で伝える。 青年が頷いたのを見て、は家の一番奥の部屋へとむかった。 ドアの前に立ち、軽く二度、ノックをする。 中から返事はない。 ドアノブに手を掛けては呼吸を整え、一気にドアを開けた。 部屋の中は、想像したのと何ら変わりはない。 明かりがない室内。 閉めきりのカーテン。 薄汚れた赤絨毯。 傷だらけの机。 ウイスキーの空瓶。 壊れた写真立て。 今は亡き妻の写真。 すでに酒が廻り始めている、父親。 全てが予想のまま。 佳一は濁った目で、ドアの手前に立つ娘を見た。 「ああ、か・・・。部屋に入る時はノックくらいしなさい」 「はい・・・お父様」 「何の用だ」 「あの、お父様に会いたいという方がいらしています」 「そうか」 特に感慨も無さそうにそれだけ言って、佳一はまた一口グラスの酒を飲んだ。 「誰だ」 「シブサワカツロウさん、とおっしゃる、若い男の方が」 「シブサワ?」 佳一の目の色が変わった。 「はい・・・。取り次いでも宜しいでしょうか」 「俺はそんな奴知らない」 「・・・え?」 そう言われて、は絶句した。 訪ねてきた相手を知らないとは。そんなことがあるものだろうか。 「あの、お父様、それでは・・・」 「渋沢は知ってる。だが、そいつは知らない。追い返せ」 「でも、」 「口答えするな!」 「きゃっ」 佳一は声を荒げ、空のグラスを壁に向かって投げつけた。 ガラスはの体を掠め、勢いよく壁にぶつかると粉々に砕けて散る。 ろれつの回らない舌で、佳一は続けた。 「いいか。二度とそいつの名前を口にするな。わかったらそう言え。出ていけ」 「はい・・・」 一礼すると、逃げるように部屋から出た。 「渋沢・・・」 の告げた名前を反復する。 ずっと忘れていた、その名前。 もう聞かなくてすむと思っていた、その名前。 自分の知っているその名前と、繋がりがあるという証拠はない。でも、理由もなく思う。 若い男と言うなら、それは彼の息子だろうか。 「今度は・・・何の用だ」 自分以外誰もいない部屋の中でつぶやく。 答える者はない。 Back Top Next 2006/06/16 |