変わりやすいもの。

小さな野の花。
碧い海原の波。
秋の山の天気。

ひとのこころ。





の 方





帰ってくるのが遅い。
父親を呼びに行くからと言って屋敷の奥へむかったのは、大分前のこと。

帰ってくるのが遅い。
――まさか、あの父親に殴られたりとか・・・。

嫌な考えが竹巳の脳裏をよぎって、即座に自分で否定した。
むやみに人の親を疑うものではない。

それでも。
心配せずには、疑わずにはいられなかった。


「ハナさん・・・。、遅すぎませんか?」
「そう、ですね。佳一様とお話でもされてるのでは」
「そうでしょうか」

ただ話しているだけならいい。
それだけなら、何の心配もいらない。
でも、酒を飲んでいる佳一がまともな話相手にならないことを知っている。
だから、こんなに時間が掛かることが心配なのだ。








「すみません・・・っ! 遅くなってしまって」

早足で戻ってきたを見て、竹巳はようやく安心した。
手をあげられた様子はない。考えすぎだったのだろう。

「本当にごめんなさい。それで、申し上げにくいのですが・・・」

言葉に詰まって縋るような目線を向けてこられ、その意味を理解した。
軽く頷いて肯定の意を示す。

「父は『そんな者は知らない、だから会う気はない』と。そう言って。ですから、せっかく来て頂いたのに・・・」

渋沢は訝しげな表情でを見つめていたが、竹巳がすぐさま訳したのを聞いて納得したような顔をした。
何度も謝りながら頭を下げるにそっと言う。

「気にする必要はないって」
「でも、」

は竹巳と渋沢を交互に見てうつむいた。
それ以上、表情はよく見えない。髪の間からほんのわずかに、横顔がのぞいているだけ。

本当に、わずかに。
表情を知ることはできない。

――でも。
泣いていたなんて。
そのことにさえ、気付いてやれなかったなんて。

――それに。
彼女を泣かせたのは、誰?



「・・・み・・・・くみ・・・竹巳?」

名前を呼ばれているのに気付いて、意識を戻すと、が心配そうな顔をして見ていた。

「竹巳? どうしたの、大丈夫?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してて。何?」
「あの、ね。悪いんだけど・・・」

言いにくそうに言葉を続ける。

「渋沢さん、居留地に知り合いが居るから、そこでお世話になるんですって。 で、案内をした方が・・・」
「僕が行く、ってことだね」
「っ、本当にごめんなさい。 でも地図だけじゃ解りにくいし、それに・・・。 私は英語が・・・」
「わかってるよ。場所は?」

でも彼女に何も問題がなかったとしても、外には連れ出さない。

「エドワーズ塾の側の、チェンバレンさん、かな・・・。本当は私が行くべきなんだろうけど」
「それは駄目。 もうこんなに暗いんだから」

もう夜と言ってもいい時間。
女子供をむやみに外に出す時間ではない。
おまけに、行く先はあの居留地。


「竹巳・・・、怒ってる?」
「なんで?」
「ううん、なんとなく」
「別に怒ってないよ。 じゃあ、遅くならないうちに行ってくる」

いけない。
気付かないうちに、声に表れていたらしい。
社交用の仮面をかぶり直して、笑顔で渋沢を向く。

「Then, let's go. I will guide you」
「Thank you」

連れ立って家を出る。

エドワーズ塾は、イギリスのエドワーズ夫妻の私塾。学校とは別に、竹巳も通っている。
地図を見る限り、チェンバレン氏の家はそのすぐ近く。


――自分は損な役回りだと思う。
の頬の、涙の跡。少し赤かった眼。

――こいつのせいで、彼女は泣いたっていうのに。
道案内なんかしてる。



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2006/07/06