薄暗い空から、雨が降っていた。
あの日も、確か降っていた。





の 方





母の弔いの日によく雨が降るのは、空が貴女の代わりに泣いているからなのだ、と――。
いつだったかそう教えてくれたのは、長く家に出入りしていた家庭教師だった。
伯爵令嬢であるは入れ代わり立ち代りやって来る人間たちの手前、感情を押し殺すことしか出来なかった。士族階級の出身だけあって優しくとも凛としていた母の、女であろうと涙を人に見せるなと言う教えを忠実に守って。

それならば空は実に親切なもので、今日も重苦しい雲から幾すじもの水滴が落ちてきている。

最近、日が落ちるのが早くなってきた。
それなのに雨が降っているから、夕方なのにもう外は大分薄暗い。


人のほとんど見当たらない大通り、ガス灯すらもまだつかない時間。
のさす緋色の和傘だけが、灰色の通りに鮮やかな色を添えていた。

後ろから規則正しく、革靴が水を踏む音が聞こえる。
角を曲がると、黒いこうもり傘の端がちらりと視界に入る。
屋敷でを引き止めた彼は一応真面目な人間のようで、つかず離れず、黙ってずっとついてきていた。


往来に人はごく少ない。
後ろから追い抜いていった馬車と、向う辻を横切った人力と、正面からたちと逆方向に歩いている黒い着流しの男と。


「お方様っ!」
「え?」

危険を察知した護衛がとっさに叫ぶよりも早く。
すれ違った黒い影に体が引き寄せられ、緋色の傘がの手を離れて地面に転がる。
降りかかる雨の冷たさとは明らかに違う、冷たく硬い感触が首筋にあたった。

「三上子爵のご夫人ですね」

硬質な声がの頭上で響く。
上を向いて声を確認する余裕もない。
緊張した面持ちの護衛が目の前で気を張っているが、それを気にしている場合でもない。

「随分なご挨拶ね。礼儀を欠いた者に答える義理はないわ」
「ああ、これは失礼。しかし此方としても名を明かせぬ事情もあります。再確認します。三上子爵のご夫人ですね」
「・・・そうよ。子爵ではなく、私に用事なのかしら」

そうです、とまた上から無機質な声が返ってきた。
声以外に彼は何の行動も示さない。それはの左肩から首のあたりまでに回された彼の左腕も、の首筋に突きつけられた冷たい感触も同様だった。

「此方のリーダーが、三上子爵のことで貴女と話をしたいと言っています」
「お方様、そんな者と口を利いては・・・っ」
「あなたには聞いていません。余計に喋らぬよう」

ぐ、と右首に当てられた冷たさが押し付けられる。
今首を動かせば、無事なのはどこまでか。

亮の言っていた「外に出るな」の忠告が、こんなところで。
は唇を噛んだ。

「そちらの港の倉庫街でお待ちです。いらっしゃってくださいますか」
「否、の返事は出来る状態かしら」
「もちろん、そう答えて下さっても結構ですし、すぐについて来て下さるとは我々も思っていませんよ。ですが・・・」

頭上の声が言いよどんでがそれを訝しく思うまでもなく、ひとつ奥の路地から黒い影が踊り出た。
黒い影はその護衛の背後に音もなく回り込み、彼がそれに気付いて回避するよりも速く走り寄る。

ドス、と鈍い音が雨に混じった気がした。

「・・・このような結果になります。ご安心を、まだ殺していません。しかし、十分こちらの意図は伝わったかと」
「何を・・・何をなさるのです、彼に用があるのではないのでしょう!?」
「ですから、用がないから刺せるのですよ。必要な方の口を封じてしまっては困るでしょう」

ゆっくりと崩れ落ちた彼の体躯から、地に溜まる雨が赤く染まっていくのが見える。
行ってはなりません、とかすれた声が雨音に混じる。
彼の背後に立つ黒い影の手に握られた血に塗れたナイフが、紅い雫を垂らしながら銀色に戻っていく。

「来ていただけますね」

もう一度声が降る。
首もとの小刀に力が入る。

「・・・わかったわ」

絶望的な目をして地に伏せる彼に、はそっと微笑みかけて、肯定の返事をした。




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2007/08/27