それはプライド。 誇りや矜持。 私ではなく、貴方のためへの。 暁 の 方 首筋に当てられていた刃物は、の返事と共に下ろされた。 しかしそれで、が何か行動できるようになったわけではない。 地に伏せた、彼女に付き添っていた護衛。 流れる赤。 鈍く煌く銀。 そういうものが、無言のうちにを責める。 転がっていた緋色の傘を渡されて、はもう一度それをさした。 もう傘なんて意味もないほどに雨に濡れてしまったけれど、手に何か持っているだけで気休めになるような気がする。 「・・・子爵夫人、こちらです」 細く、人気のない寂れた路地裏は、港へと抜ける近道だ。 は護衛の彼に微笑むと、目を合わさないようにすぐに反らした。 雨の港は、一面灰色を流したように色がない。空はもちろん重苦しい鉛色で、降り注ぐ銀の雨も物悲しいだけの無色の糸。 波止場につけてある船も旗を下ろしてしまえば色はなく、遠くにも船はない。 うねりを上げる暗い海。詰まれた土嚢に波が当たっては白いしぶきを上げて返していくけれども、無彩色の世界に何が加わると言うのだろう。 晴れた日には蒼い空と海に映えて美しいはずのレンガ造りの倉庫も、この灰色の世界で何故か冴えない。 「こちらで、お待ちです」 幾つも並んだ中の、奥から三番目。 が緋色の和傘を畳むと、横から男はすっと倉庫の扉を開けて中に通した。 小さな石油ランプのほかに倉庫内は明かりがなく、薄暗さのせいか陰気な空気で澱んでいる。 を中に通すと、黒い着流しの男が彼女を後ろ手にさせ、その手を掴んで座った。 縛られているわけではないものの、掴んだその手は力が強く振り解けない。おまけにそのまま座られてしまっては彼の体勢に従うしかなく、は引っ張られるようにして同じように冷たい床に座った。 見渡すと幾つもの荷物が所狭しと積まれているが、それが一体何の荷物なのかには見当もつかない。 目の前には、やはり着物に袴の男の姿があった。 ねめつける様な視線と不愉快な笑みに、は剣呑に目を細める。 「ああ、そんな怖い顔をしないで下さいよ。せっかくの美人が台無しじゃないですか」 「御託は結構よ。ご用件は何かしら」 こんな所にわざわざ連れ込んで、とは心の中で続ける。 心当たりがないわけでもない。ただ、確定しているのはこれが穏やかなただの話し合いでは済まされないということだ。 「済みませんでした」と慇懃無礼に返事をして、目の前の男は続けた。 「では、手短に用件のみお伝えしましょう。子爵夫人、三上子爵に取引の辞退を進言して頂きたい」 「・・・いつかもそのお話はしたわね」 「あの時は部下に行って頂きました」 「なら、返事はわかっているはずよ」 「気が変わるということも有り得るかと思いましたのでね。さて、お返事は」 ものともせずに言いのける男に侑は眉をひそめた。 終始絶やさない笑みが不快でたまらない。舐めまわすような視線が気持ち悪い。 「いいえ、よ」 「私も気が長くない。はい、と言わないなら、危害を加えるのもためらいませんよ?」 「・・・っ」 きらりと鈍い光が反射して、目の前に小刀が突きつけられる。 とっさに動こうとした体を、後ろ手につかまれた手が邪魔をする。 「いかがですか?」 「・・・いいえ、よ。何を言われようと、あなたの要求には従わない」 は男を見返す。 ほんの数秒の膠着状態の後、男はふっと息を吐いて小刀をしまった。 「なるほど。実に素晴らしい。わかりました、交渉は決裂ということで。ところで、このような噂がまことしやかに流れているのをご存知ですか?」 「・・・何かしら」 「三上子爵の所は外からは大変中睦まじく見えますが、実は最初から夫婦仲は冷え切っている、と。あの子爵が手も出さないほどにね」 「それを私に言って、どうしようと言うのかしら」 くい、と顎をつかんできた男をは睨みつける。 男は愉しそうに笑みを作った。 「私はね、もしその噂が本当なら、子爵が手を出さないのは仲が悪いからではないと思うのですよ」 「手を離しなさい。それが何だと言うの」 「・・・男にとって一番屈辱的で最も耐えがたいのは何だかわかりますか?」 何も言わないに、男は続ける。 「愛しているのに何も出来なかった女に、自分より先に手を出されることですよ」 「い・・・いや・・・っ!」 腕が開放されたのもつかの間、強い力で押し倒されてぐらりと景色が揺れた。 地面から伝わる硬い感触と波の音。 喪服の襟元に手がかかる。外気に肌が触れる。 「いやっ、離し、て・・・いやああぁっ!」 叫び声は雨と波の音にかき消され、どこかに伝わることはなかった。 Back Top Next 2007/10/03 |