潮風と海鳴り。潮騒。 雨と土の匂い。 もう決して。 決して、あの人に近付くことは出来ない。 暁 の 方 ともすれば高波が壁にかかってしまうような、それほど海に近く面した場所。 赤煉瓦が並ぶ倉庫街では、潮の匂いが鼻につく。 それは雨に溶け込み、土の匂いと相まって霧のようにまとわりつく。 鉛色の空と、鈍色の海と。 明るい気持ちになど少しもさせてくれない、無彩色の世界。 きちんと並んだ倉庫は全て同じ色と同じ形で海に向かっている。 潮騒が耳にうるさい。 急かされているようで、早く、と。余計にいらいらした。 「タク」 風と雨の声に混じって、藤代が名前を呼ぶ音が聞こえる。 はじかれたように笠井は音源の方を向いた。 「タクー、生きてる? ダイジョブ?」 「あ・・・大丈夫」 「ならいーんだけど。あそこ。ちょっと開いてる」 藤代が左手で倉庫のひとつを指差す。そこに見えるのは、周りと同じ赤煉瓦で造られた壁と、そこにぽっかりとあいた暗い口。 いつの間にか、笠井の体は動き出し、それに藤代も続いた。 薄い隙間に手を差し込み、横に力をかける。ずるずると重い扉が開いていく。 薄暗い外よりもなお暗い倉庫の中、視力は格段に減少する。 それでも視界に見えたのは、地面に転がる、何よりも鮮やかな緋色の和傘。それから、怯えるような人の顔。 倉庫の隅に座り込んだは、その白い肌のせいで暗い中でもぼうっと浮かび上がって目立っていた。 「・・・?」 「いや・・・っ」 彼女の傍に寄ろうとした足が、その声で反射的に止まる。 暗順応の遅さを恨めしく思いつつも少し慣れてきた目を凝らすと、彼女の目に溜まった涙が映った。 「や・・・何で・・・なんで竹巳が・・・」 黒目がちの目をまっすぐ竹巳に向けたまま、緩慢な動作でが身じろぎする。 暗さに馴染んだ目は、ようやくの姿をとらえた。 解かれた帯が、長く地面に垂れている。墨色の喪服が暗さに溶け込んで、代わりに白い襦袢が映える。 それよりもさらに暗い中に映えていたのはの肌で、それは首筋と、肩と、足と。大きくむき出しにされていた。 ひざを曲げ、胸元に両手をやり、うずくまるようにして彼女は座り込んでいる。涙にぬれた瞳が怯えきった色を滲ませて、こちらを見つめる。 何が起きたかを、一瞬で理解した。 「・・・俺、馬車呼んでくる」 「誠二・・・」 くるりと背を向けて、藤代が倉庫から出て行く。それを止めることも竹巳はしなかった。 「・・・」 「いや・・・なんでいるの・・・いや・・・」 涙声を震わせ、がややうつむく。 ぽたぽたと雫が着物の上に落ちる音が、雨に混じった。 「やだ・・・どうして・・・わたし・・・」 「」 のすぐ目の前に座り込んで、竹巳は彼女の髪に手を触れた。 びく、と体が一瞬震えて、小さな嗚咽が響く。 「ごめん・・・なさい・・・」 「・・・?」 目からとめどなく涙があふれている。 髪を撫でた手をそっと頬にあてると、はふいと顔をそらした。 「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」 「?」 「ごめんなさい・・・あきら・・・」 「・・・」 何度も、何度も彼女は繰り返しつぶやく。 嗚咽を漏らし、体を震わせ、何度も。 ああ、もしあの人がいなかったなら。 あの時のままだったなら、俺は彼女をこんな目に遭わせるはずがないのに。 Back Top Next 2008/03/19 |