聴覚を侵食する雨の音。 嗅覚を蝕む海の匂い。 急に開けたその視界に映ったものは。 暁 の 方 「タク、呼んできたけど・・・」 水がはねる音がして、扉の前に立った人影が伝える。 笠井がその方を見て頷くと、影はふっと扉から横に退いた。しかし、は相変わらずうつむいて嗚咽を漏らすだけ。 こんなに泣いている彼女を見るのは、何年ぶりだろうか。 彼女の母親が死んだ時も、祖父が死んだ時も。あんなに懐いていた兄が行方不明になったと知った時ですら、彼女はあまり泣かなかったというのに。 「、行かないと・・・」 「・・・っ!」 の腕を取ろうと伸ばした手は振り払われて、後は虚しく空を切る。 とっさのことに驚いた笠井にははっとしたような表情を一瞬見せ、それからまた顔を伏せた。 「」 「・・・っ、ひとりに・・・」 動くことも出来ずに、手を差し出すことも出来ない。 どうすることも出来なくて、笠井は黙って倉庫を出た。 風が強めに吹いて雨の角度を変えた。 潮の匂いが海鳴りと共に倉庫の中にも流れ込んだ。 は伏せていた顔をわずかに上げた。 扉ととのあいだに立っていた人間がいなくなって、視界をさえぎっていたものは取り払われた。 取り込まれたほんのわずかな光を追うと、外の様子が目に飛び込んだ。 倉庫の中より、外はまだ少し明るい。それでも薄暗い灰色の空、同色の背景の中に、同じように暗い色の海が横たわっていた。 うねる海面、ときおり立つ白い水しぶき。 目と鼻の先、招くように耳に届く、陰鬱な潮騒。 ああ、そんなにも簡単なことなのに。 壁に手をついて、体重を預けながら重い身体を立ち上がらせた。 頭がくらくらとして、めまいが起きる。膝ががくがくと笑う気がする。 腰に走った鈍い痛みに眉をわずかにひそめ、つい先刻起きた出来事に身を硬くする。 あれは、あまりにも忌まわしくて。 ――悪夢。 夢だったら、早く醒めてしまえばいいのに。 震える足を無理やり一歩進ませる。そうすると、何故だか二歩目は簡単に足が出た。 薄暗い空のもと、屋根の下から出れば出れば幾筋もの雨が降り注ぐ。 解けた帯も置いて、腰紐だけが結ばれた喪服を引きずる。黒い着物に目立つ汚れが、雨で余計に汚く映る。 気にしている余裕はない。 彼女に見えるのは、大きく一面に広がった暗色の海だけ。 「・・・っ!」 焦りを含んだ笠井の声を振り切って、腕をかすった手を振り払って。 手を広げた海はもうすぐそこに。 「!!」 暗い藍色の海、小さな白いしぶきが立った。 「タク、待って」 「待てるわけ・・・っ」 駆け出した笠井の腕を藤代が掴む。 反論しかけると、藤代はの緋色の傘を押し付けるように渡した。 「俺が行くからタクはここにいて」 「な・・・」 口をついた言葉が形になるよりも早く、藤代は上着を脱ぎ捨てる。 緋色の傘を手にもう片方の手でそれを咄嗟に受け取った時、藤代の姿はもうなかった。 今日で二つ目の、水をたたいた音が聞こえた。 Back Top Next 2008/04/21 |