その海原は何もかも飲み込んでうねっていた。
あまりにも暗くて、あまりにも深くて、その場所はあまりにも広すぎた。





の 方





が海に飛び込んだ。
そのすぐ後に藤代が追いかけて海にもぐった。

笠井はやきもきしながら、薄暗い海を見下ろしていた。

何もせずに見ているだけの自分がひどく歯がゆかった。
ついさっき、彼女の泣き顔を見たばかりだと言うのに。

あの嗚咽が、耳にこびりついて離れない。
あの白い肌と細い肩が、目に焼き付いて離れてくれない。

そうしていた時間は本当にわずかなものではあったが、異様に長い時を待っていた気がしていた。
なかなか浮かんでこない藤代とを無意識に探し、目は藍色の海面をさまよう。
ほんの数秒しか経っていないのだと頭の片隅にはあるのだけれど、それを完全に受け入れることが出来ない。

水面の藍色が一点だけ濃くなったのに気づいて、笠井はその場所を凝視した。
濃い色の面積はだんだんと大きくなり、ふいに白い泡が立つ。同時に盛大な水音を立てて、ばしゃりと軽く、雨とは違う飛沫が降りかかった。

緋色の傘が灰色の地面に転がり、肩に雨粒がかかる。
雨の中に顔を出した藤代よりも、その胸に抱えられた青白い顔へと真っ先に目が行った。

・・・!」
「あー、ちゃんと生きてるから」

藤代が軽く笑みを見せて、固い船着の地面に片手をかける。それから笠井を見上げて、また照れたように笑った。

「あのさー、ちゃん引き上げてくんない? このまま上がんのやっぱ無理」
「あ、ああ・・・」

は血色のない顔をして、目を固く閉じている。その姿を見たまま動けなくなっていた自分に気づいて、笠井は小さくかぶりを振った。
右手を下に向けて伸ばすと、侑の濡れた腕に指が触れる。その彼女を海から引き出して受け取ると、藤代が水音を立てながら軽々と上ってきた。

「さすがにもう水冷たいし、喪服黒いから見つけにくいし雨降ってて暗いし・・・タク、俺の服は?」
「・・・微妙に雨かかってるけど」
「へーきへーき。もう俺十分濡れた」

へらりと笑って、藤代は笠井からその着物を受け取った。海水に濡れた身体を袖口で適当に拭くと、彼は湿った着物をものともせずにまとう。

そんな藤代の様子は視界の隅にちらついてはいたけれど、笠井の意識はに向けられたままだった。
彼女の帯はもうどこかに行っていて、青白い肌が布の端々から見えている。濡れた白い襦袢から侑の身体が透ける。
見てはいけないと思ったから、笠井は喪服の襟を引き寄せた。水を吸った黒い着物は重く彼女の体にまとわりついて、結局あまり動かすことは出来なかった。

顔からは血の気がまるで失せていて、唇さえも色をなくしていた。
彼女の体重を支えている腕からも、抱きとめた胸からも、を濡らす水は染み込んできて笠井の体を冷やした。
彼女の腕も顔も冷たかった。

「水ほとんど飲んでないと思う。俺が見つけたときはもう気失ってたから」

藤代が緋色の傘を拾い上げて、笠井との上にかざした。
笠井がふと見上げると、藤代は安心するような笑みを見せる。

「だからさ、早く帰ろうよ。ちゃんだってこのまんまじゃ寒いって絶対」
「・・・そうだね」

薄く笠井も笑みを浮かべて、のろのろと立ち上がる。
の体重は全て笠井の腕に預けられ、それは喪服の重さと共に座っていたときよりも重くなったような気がした。
右腕にのほつれた髪がかかり、袖に水滴が染み込んで張り付いたのが冷たくて気持ち悪いと思った。

少しばかりの反動をつけて、の体躯を抱えやすいように抱きなおす。
振動は確かにに伝わったはずなのに、彼女の目は閉じたままだ。

「あの道の入り口のところで馬車待たせてるんだ。俺のうちの呼んだからさ、楽だと思うよ。なんか言い訳しなくて良いし」
「・・・うん」

藤代が緋色の傘を差し出しながら横を歩く。
笠井はあいまいな返事をしながらそれに続いていた。

周りを見なくても何故か足は勝手に動いた。




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2008/05/07