馬車は雨の中を走り続ける。
水しぶきを上げ、車輪が石畳と触れ合う音が響く。

けれども、馬車の中では対照的に静かだった。

誰も何も話さない。
目を閉じる彼女を目の前に、わかりきったことさえも口に出せずにいた。





の 方





がらがらとうるさい音が続いている。小刻みに振動が身体に伝わる。
雨降りの外。薄暗い外。しっとりと湿った空気がまとわりつく。
その雨の匂いの中に、かすかな潮の匂いが時折混じる。


彼女の黒い着物は、これでもかというほどに水を吸っていた。
冷えた着物は身体に毒だと知っていたが、季節が悪かった。
水浴びはもう出来る温度じゃない、けれども防寒をする季節でもない。彼女をこのままにしておけないのに、外套一枚すらない。濡れた喪服は襦袢と一体化してしまったかのようにはりついている。

じわじわと、彼女に触れた部分から笠井の着物も水を吸っていった。
水は冷たかった。彼女の白い手も、白い頬も冷え切っていた。
ぽたぽた裾から雫が落ち、笠井の足元に小さな水たまりを作っていた。


笠井と藤代の前には、の護衛にとついていた青年がぐったりと馬車の壁にもたれて座っていた。
腹の辺りを押さえた手が濡れて、わずかな外の明かりに浮かぶ。彼が着ている白いシャツは、薄明かりでもわかるほどに色を変えている。

彼は、浅い呼吸を繰り返していた。鉄錆の臭いが鼻をついた。
傷は深くはなかったが、出血の量は少ないとは言えなかった。腹部の傷では、止血も完全には出来なかった。
ぼんやりとした瞳で、それでも彼はの方を見ていた。


馬車の中は静かだった。車輪と道が触れ合う音と、外の雨の音が響いていた。
藤代も笠井も、もちろんと護衛の青年も、一言もしゃべらず、視線も動かさなかった。
時折吹き込む雨が顔にかかっても、笠井などぬぐうそぶりも見せなかった。

何かを話す気にはなれなかった。どう転んでも、のことが気にかかった。
彼女の身に何が起こったか、そんなことはあの倉庫でわかってしまった。
二人ともわかってしまっていたから、二人とも口をつぐんでいた。


馬車は進んでいた。薄暗い道を、音を立てて進んでいた。
大通りにはガス灯の明かりがついていたが、雨の中かすんで見えた。人通りはまばらで、皆、心なしか急ぎ足だった。
そんな人たちをさっさと追い抜いて、追い立てられるようにこの馬車は走っていた。
いや、追い立てられているのは事実で、いつもよりも多く鞭を振るう音がしていた。
雨音ともひづめの音とも違うその空気音は耳につくのに、笠井には伝わらない。
歩くよりもずっと早いはずなのに、何も出来ない今、乗ってるだけのこの時間が彼にはやたらと長く感じた。


長い沈黙はどうしても何かを思い起こさせる。
をじっと見つめて、笠井は何度も先刻のことを思い出していた。

は倉庫の中だった。泣いていた。久しぶりに見る涙だった。
黒い着物が埃でかすかに汚れ、襟元がはだけて肩が見えていた。着物と同色の帯が解けて尾を引いていた。
薄闇にまぶしい白い襦袢との中に、の足が太ももからあらわになっていた。

そこまで思い出して、笠井はゆっくり目を閉じる。
これ以上、考えるべきではない。
何か考えても、それはまた同じ結論にたどり着くだけだ。の身に起こったこと、それが何かという結論。何度繰り返しても、どうしようもない最低の結論。
だから考えるべきではない。
そしてまたゆっくりと目を開ける。笠井のひざの上、腕の中には横たわっている。
取りとめもなく再び倉庫の中が思い浮かんでは、勝手に消えていってまた浮かんだ。延々、それを繰り返した。



ふいに、ガタンと体が揺れた。
ひときわ大きな音を立てて、馬車はようやく止まった。
車輪の音も、馬のひづめの音も、規則正しく伝わっていた振動も止まった。
笠井はを抱いた手に力を入れた。

着いたのだ。ようやく。

擬似洋式の構え、巨大な二階建ての白い壁。
窓から小さな橙の明かりが灯っているのが見える、笠井の家に。




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2008/07/02