玲が彼を呼び付けたのは、ある日の夕刻、日はもう傾いている頃だった。 当主よりも一つ年下の彼は、二年ほど前から正式にこの屋敷に仕えている。 玲は彼を、一介の当主の相手役に終わらせようとはしなかった。 毒娘 薄暗がりの中、黒い人影が淋しい裏庭の奥へ入っていった。 浅黒い肌に高めの身長、黒い髪。当主の翼とは対照的な少年だ。 彼は右手に提灯を持ち、左手には朱塗りの盆。白い布がかけられている。 布に隠されているのは黒漆の椀、白い茶碗と白い皿。行灯用の菜種油。それに加えて何故か赤い蝋燭があった。 赤い蝋燭にはどことなく甘い匂いがある。 「西の岩室・・・ここか?」 彼はぼろぼろのその場所で巨大な岩戸を見つけ、足を止めた。外にはしっかりとした閂がささっている。 その岩戸のあまりの大きさに身構えたが、どこか仕掛けでもあるのか、女子供程度の弱い力で岩戸が開けられる。 中は当然のごとくひらけていて、真っ暗だと思っていたのに淡い朱の光が泳いでいた。それは、彼の持つ提灯の灯りよりも明るく岩室の中を照らしている。 その中心に置かれていたのは、煌々と光を放つ大きめの行灯だった。 大きいが持ち運びも出来るように持ち手があり、ぐるりと一周張ってある紙は淡い桜色で、それが炎を朱に見せていた原因だった。 床には何冊か本が積みあがり、隅には簡易棚のようなものが置かれ、書き物用の文机まで備えてある。そして、中央に敷かれた褥の上に、少女が一人座っていた。 彼の立つ岩戸に背を向けて、彼女は書を読み耽っている。 ぬばたまの黒髪と、驚くほどに白いうなじが目に焼け付く。 纏う着物は鮮やかな緋色で、鬱金色の帯が目を引いた。 「おい、」 「あ、夕餉は・・・」 彼女が彼の声に振り向いたまさにその時、明々と燃えていた行灯の炎はふっと消えた。 それによって少女は続けようとしていた言葉を切り、しばらく黙る。 「あの・・・その中に油、ありませんか?」 「あ、ああ・・・」 白い布の下から油の入った壺を彼が取り出す。受け取った彼女は空の壺を代わりに渡し、行灯の皿に受け取った油を流し入れた。 提灯の火を貸すと行灯に灯りが戻り、岩室の中が再び明るくなる。 「・・・ありがとうございます。あ・・・?」 彼女が少年の顔をまじまじと見つめてきて、目が合った。 吸い込まれそうな漆黒の瞳、透けそうに白い肌。白粉の色ではないことは見ればわかる。大雑把に纏められた髪には鼈甲のかんざしが留まっている。紅でもひいているのか、唇は血の通った色をしていた。 玲よりも美しく、儚げな容貌の少女。仄かに香る甘い匂い。 纏う空気が非現実的で、人でないような気さえした。 「また人がお代わりになったのですね・・・。夕餉はそこに置いて下さい。あと蝋燭を・・・」 「これか?」 「ええ・・・」 使いかけの赤い蝋燭を差し出すと、彼女が戸惑った顔をした。何回か彼の顔と蝋燭を持つ手元を見比べると、おずおずと彼女も手を伸ばす。 白くて細い指が、蝋燭をつかんだ瞬間に彼の手に触れた。 「あなたは・・・私のこと、玲様に聞いていらっしゃらないのですか・・・?」 「別に。何も聞いてねーけど。何かあんのか?」 「そうなの・・・」 少女がほっとしたような、泣きそうな、不思議な表情をした。 「当主様とお知り合い?」 「だけど」 「それなら当主様か、そうでなければ玲様に聞くのがいいわ・・・私に答えられることは多くないから」 微笑みながら哀しそうにぽつりと言ったあと、「でも、」と彼女は付け足す。 「これは言えます・・・次に来る時からはこんなに中まで入ってこない方がいいです。特に夜は・・・」 「何でだ?」 「それは御当主様に聞いて頂かなくてはなりませんが」 答えるのを拒絶するかのように、少女がうつむいた。 はらりとかかった黒髪で顔が隠される。 「なあ・・・一つ聞いていいか?」 「・・・答えられることなら」 彼の方を見向きもせずに、少女は答えた。 「あんた、名前は?」 「名前・・・・・?」 声に驚きの色が混ざり、うつむいていた顔もあがる。 ずっと昔、まだ庵にいた頃。 違う人から、同じようなことを聞かれた。 あの時は、答える名前なんて持っていなかったのに。 「・・・囚人に名前なんてありません」 それだけ言って、少女は後ろを向く。 完全な拒絶の姿勢に、少年は素直に引き下がった。 2007/01/12 |