この身体以外に。
私には一体何の意味が有りましょう。





毒娘





薄暗い空の下、武装し、葦毛の馬に乗った翼の前には何千という兵卒が並んでいた。隣の国に攻め入ると玲が号令を出し、集められた兵たちが。
皆一様に起立して背筋を伸ばし、微動だにせず、目の前の翼を見ている。

小柄で線の細い体付きでも武芸の腕は抜きん出ていて、統率力もあり戦術にも長けている。戦局を見る目も高いこの翼への信頼は非常に厚く、飛葉の誰もが彼に従った。

隣の国との国境付近、これから戦場となるであろう広い荒れ地。
この国の兵力は約三千、対する向こうは約五千。
まともに当たって勝てる確立はどう考えても低い。


――とにかく、夜までもたせればいいんだ。

日が落ちれば否応無しに戦は休戦状態になる。
毒娘がうまく行けば、勝機はやってくるのだ。

――夜まで。

翼は敵陣を睨み付ける。



ここ何十年と、あちらこちらで戦は絶えなかった。
国境は幾度も変わり、地図は書き替えられ、若い武将が力を握ってはまたすぐに倒れていった。
武家の男は武器を取り、女は跡取りを取った。
町の男は畑を捨て、女は親を捨てた。
混乱は極まり、土地は荒れ、人々は息を潜める。
武将たちは我先にとこの混乱の地を統一しようとした。

やがてその中で大国へと伸し上がったのは武蔵森だった。
よく訓練された兵と能力ある指揮官は他を圧倒し、やがていくつもに分かれた小国を支配下においたのだ。

しかし、いかに強く巨大な国であろうとも完全に全土を治めることは出来ない。
戦国の世から持ち越された火種は未だくすぶり続け、国同士の争いは終わる気配すらなかった。

そんな中、周囲を押さえ込んで台頭してきたのが椎名家が治める飛葉だった。

隣国の桜上水と友好を結び、他の国を圧倒し、飛葉は確実に勢力範囲を広げていく。
玲が造った毒娘なる少女は、さらに力を拡大するための兵器なのだ。




――低く、通る音がする。


「かかれ!」

低く響き渡るほら貝の音と共に、翼が大声で指示を出した。
椎名の家紋が染め抜かれた赤い旗と、向こう側の白い旗が入り乱れて動き回る。

敵の大将がいるのはあの小高い丘の上。そこに本陣を構えている。
首を取ればこちらの勝ち。取られれば向こうの勝ち。
負けてはいられない。

幸い、こちらは人数の割に善戦していた。これなら長くなるだろう。

「・・・マサキ」
「何だ?」

すぐ横にいる彼に翼は前を向いたまま尋ねる。

「西の岩室に入れてる娘は来てたか?」
「ああ、今は監督と一緒に本陣にいるはずだぜ」

そうか、とうなずいて考える。

今優勢なのは当然向こう。数の割に善戦しているとは言え、人数が三対五で不利な以上勝っているとは言えない。
人数比が違うというのは単純に数の上だけでの有利不利ではないのだ。
人が多くなれば完全に統率するのはそれだけ難しくなるが、同時に広い戦場では大量の兵士は大きな武器となる。
そのまま戦わせても、挟み撃ちにしても、少し休ませておいて持久戦に持ち込んでも勝ち目はいくらでもあるのだから。


翼は南の空を見上げた。
空を覆っている雲で直接見ることは出来ないけれど、位置を知るには十分。
南の空の西側、薄灰色の雲に周りより一回り明るくて白くなっている部分がある。

今の太陽の位置はあそこ。
この曇り空なら、日の入りより少しは早めに暗くなると考えていいだろう。

「あの娘を外に出す」
「は?」
「あの反対側の丘の上に向かわせる。マサキ、ひとまず本陣に戻って道を確認して。遠回りで良い、山中の道でもいい。普通に市井が通ってもおかしくない道を選べよ」
「おい・・・」

前を見つめたまま淡々と話し続ける翼に、柾輝は違和感を覚える。
しかしそんな風に思われているとは露知らず、翼は続けた。

「日が沈んで戦が終わった頃くらいに向こうに着くようにしろ。山中は女一人だと危ないから、おまえがついていけよ。見えてきたらあれだけ行かせて、マサキは引き返せ。あと、」
「待てよ、とりあえずわかったから」

言葉を遮った柾輝を、翼は胡乱気に見やった。
少し大きい馬に乗っている彼は柾輝と視線が同じくらいになって、投げ遣りになっているような視線と目が合う。

「何だよ」
「向こうの丘は敵方の本陣なんだぜ」
「そうだよ、それが?」

説明もしたくないと言わんばかりの声が返ってきた。
それをものともせずに柾輝が言い返す。

「・・・あいつ、殺されるんじゃねーの」
「知らないよ。バレなきゃいいだろ。ほら、さっさと行けよ」

バレなかったところで、翼が彼女に何をさせるつもりなのか柾輝には理解が出来なかった。
年若い娘が戦場の敵方に放り込まれて、殺されなければ凌辱されるだけだ。そうでないなら、身体を売って情報を得る密偵役しかないだろう。
例え無関係の村娘であろうとも、戦場にのこのこ乗り込むのは危険極まりない。

柾輝は岩室の少女のことを思い出す。
作り物のように整った顔。雪のように白い肌、鴉の濡羽色の髪。
桜貝の爪、黒真珠の瞳。
容貌はたおやかで儚く、見たら忘れられないほどに美しい。

無事に帰ってくると思えない。

「間諜でもやらせんのか?」
「うるさい、聞くな! さっさと行けって言ってるだろ!?」

激昂して翼は柾輝に怒鳴りつけた。彼が驚いているのを尻目に、ぷいとまた前を向く。
彼が諦めたように本陣に向かって馬を走らせていたのがちらりと見えた。

「間諜の方がまだマシなんだよ・・・」

うつむいてつぶやいた声は、幸いにも誰も聞いていない。




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2007/01/27