玲様が生かしてくださる。
だから命には背けない。





毒娘





月の明るい晩、本陣にはあちこちに明々と松明が燃えていて、月の光さえ霞みそうな明るさだった。
衛兵たちが松明のそばに仁王立ちになり、周囲の様子を伺っている。
目の前に伸びる山道は暗く険しく、人も獣も通る気配がない。
辺りは静かで、聞こえるのは虫の声だけ。
ここが戦の本拠であることを忘れそうなほどだった。

何事もなく過ぎ去る時間は、兵士たちの気を緩ませる。特に、朝から夕方まで気を張り詰めていた彼らにとってはなおさらのこと。
眠気と拡散される注意力と闘っていた見張り役の衛兵は、危うく駆け込んできた少女を見過ごすところだった。

「待て! お前、何者だ!? ここがどこだかわかってんのか!」

松明の横を駆け抜けていったのは、炎より鮮やかな緋色の着物。
少女の肩をぐいとつかんで引き止めると、漆黒の瞳と目が合った。
松明に照らされて、黒い瞳は濡れたように潤んでいる。白い肌は橙の炎に浮かび上がり、対照的な黒髪は闇に沈む。

衛兵は息を呑んだ。

あまりにも美しくて、儚げな容貌。どことなく浮き世離れした雰囲気。夢にさえ出てこないような綺麗な少女だった。


「助けてください・・・!」

か細い震える声で絞りだすように言うと、少女は兵士に縋りついた。
胸の辺りに、少女の顔があたる。仄かに漂う甘い香りが、頭の中をぐるぐると混乱させる。

ただならぬ様子に、もう一人の衛兵が近づいてきた。
「おい、何やってんだ!」
「あぁっ」

襟元を捕まれて引き剥がされた少女が小さく悲鳴をあげる。
引かれた勢いあまって、彼女は後ろによろけて倒れそうになった。それを見ていた衛兵があわてて支える。

「あ、ありがとうございます・・・」
「いや、それより・・・」

見上げられた瞳が体に直接訴えかけてくる。

炎に照らされて浮かび上がる白いうなじ。
鼻腔をくすぐる甘い香り。

戦場にいる兵士たちにとっては毒にしかならない、女の匂い。

その毒気にあてられないようにと、兵は少女から顔を背けた。
この少女は人を惑わせる。

「た、助けてください・・・! わたし・・・」
「助ける? 何からだ」
「ひ、飛葉の・・・」
「飛葉?」
「何!?」

鋭い音を立てて抜かれた銀色の刀身に、少女の顔が恐怖に引きつる。
今の戦の相手国は飛葉。関わりがある者は即座に切り捨てると言わんばかりの勢いだ。
それをもう一人が宥めて刀を鞘に収めさせた。
戦の最中であるせいか、気が立ってしまうのはいけない。

「それで、何しにここまで? 助けてほしいとは?」
「あ、の・・・・追われているのです、」
「追われる? 飛葉に?」
「は、はい・・・」

伏し目がちの少女の瞳が揺れる。
目をふちどる黒くて長いまつげが、不思議な陰影を少女のまぶたに落としていた。
儚げな印象が一層強くなる。

「それでこの山の中を?」
「はい・・・こちらの御当主様に御慈悲を乞おうと・・・も、申し訳ございません・・・」
「当主にだって!?」

物凄い形相で詰め寄る兵に、少女はまた小さな悲鳴をあげてあとずさった。
怯え切った目が真っすぐに向けられて、目を逸らさないではいられない。

「当主に会えるだなんて思ってんのか、この娘! さては、飛葉の密偵でもしてるのか!?」
「いいえ、違います! 違うのです、どうか、どうか信じてください・・・!」
「ふざけんな!」
「お願いします・・・あっ」

縋りつく少女を、多少の罪悪感とともに振り払う。
地面に倒れこんだ少女の見上げる目が懇願しているように見える。

少女は必死で訴えていた。

裾に泥のついた緋色の小袖。
白い顔、白いうなじ、白い手首。
見ればわかる育ちの良さ。

飛葉に追われていると助けを求める少女は憐憫の情を誘い、哀れで、その上可憐だ。

片方の衛兵が、もう一人に耳打ちした。
言われた方は驚いたような表情をしたが、言い包められたのか納得したのか、口元に小さな笑みを見せた。
打って変わった人の良さで彼は少女に手を差し出す。

「わかった。当主に話を付けてやる・・・こっちだ」
「あ、ありがとうございます・・・!」

ほっとしたように、少女は微笑んでみせた。




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2007/02/16