桜上水は数少ない飛葉の友好国だ。 国境を共にし、飛葉の東に位置する小国である。 人口は決して多くなく、突出した産業もない。 ただ、若い当主が治める平和な国、それが桜上水。 毒娘 飛葉には医者がいない。 そもそも病気が少ない上に薬草の知識があるため、大事に至らないのだ。 それは飛葉の当主家、椎名一族も例外ではない。 しかし桜上水には医者がいる。 相当な変り者ではあるが、それでも医者であることには変わらず、古今東西の病気や治療法にも詳しいらしい。 通常なら当主である翼は桜上水に入れば必ず挨拶に当主の水野家へ寄るのだが、今日はそんなことをする余裕もなくまっすぐに少女を連れて小さなその小屋へと向かった。 小屋というには大きく屋敷というには小さいその茅拭きの家は、仮にも御殿医が住む家だというのに何故か中央から外れた所に建っている。 苦労して何とか辿り着くと、中から待ち構えたように人が出てきた。 「珍しいな、椎名がここに来るとは」 「ちょっと見てほしいのがいてね」 「飛葉の薬草で治らない症状など、治せるとは思えないが」 「治療というよりは不破の考えを聞きたいんだけど」 ふむ、と彼が頷いて椎名を中に招き入れた。 つかつかとまっすぐ書き物机に向かうと、不破は半紙と筆を取り出してすとんと一段高い畳の上に座る。その前の円座に椎名は少女を座らせ、自分はその隣りに腰を下ろした。 少女は落ち着かなさそうになんとなくそわそわしていたが、すぐに諦めたように前を見る。 「用があるのはそいつか?」 「そ。血が止まらないんだけど」 「それはまずいな。で、どこだ?」 「首」と椎名が短く答えると、少女が結い上げていない髪を左手で持ち上げ、首の左側に流した。 白い肌に切り付けられたような赤い傷が露わになる。 「ここか? ・・・傷は二つ在るが、血は止まってるぞ」 「さすがにね。でもそっちの小さい方の傷でさえ三刻近く止まらなかったんだ。それに手首の痣も十日ばかりその状態。どう思う?」 何か半紙に不破は走り書くと、少女の首をもう一度見る。傷を触ったり押したりと色々していたが、見た目は普通の治りかけの傷と何ら変わりはない。 手首の痣も同様に、ただの内出血による青痣だ。 「首の方は毒蛇にでも咬まれたのか?」 「まさか」 「そうか。毒蛇の中には血を固まりにくくするものがいると聞いたのだが」 「にしても三刻は掛かりすぎだ」などと、一人で彼は思考を巡らす。 「病気や体質じゃないわけ?」 「そういう病気もあることはある。血によって子に伝わる体質の病気だな。しかしそれは何らかの理由で男子にしか発生しないことがわかっている。これだ」 「ふーん」 手渡された書簡をさらりと流し読む。 書いてあることは不破の言ったことと全く同じで、なら、それは当てはまらない。 「後は・・・そうだな」 椎名から返された書簡を棚に戻しながら、不破はさらに別の本を出して頁をめくる。 ぱらぱらと三、四冊それを繰り返すとぱたんと閉じて書棚に背を向けた。 「椎名一族は薬草をはじめとする各種毒物を扱う家だろう。何か食事にでも混入したのではないか?」 「わざわざそんなことをするわけないし、そんな毒は見つかってない」 「それは調合次第だ」 眉一つ動かさずに不破は続ける。 「毒蛇を殺して得た毒をそのまま使っても確かにそういう症状は出ないが・・・実際咬まれてなった症例はいくらでもある。つまり他の何かと組み合わせれば効果は出ると期待される」 「何かって」 「それがわかれば苦労しない。ところで、そこの」 「あ、はい、私・・・ですか?」 「それ以外誰がいる」 僅かに呆れが入ったような口調で言うと、不破は一番下の棚からまた別の本を取り出した。 かなり厚い本だった。そのためか綴じている黒い紐も太めに作られており、さらに二本合わせて使っている。 紐そのものが太いせいか、それらの間隔は却ってよく見る本より広いように見えた。 少女の座る位置から六尺ほど離れると、不破はその背表紙を彼女の方に向けて指し示す。 「何本糸が通ってるかわかるか」 「え・・・と・・・すみません、わかりません・・・」 「ここまで近づくと」 「・・・六、ですか?」 「違うな、これでわかるか?」 さらに一歩近づいて、ようやく彼女は本数を言い当てた。 やっぱりな、と不破は一人頷く。 「その焦点の合わなささは目が悪い人間のだな。近い所ばかり見て遠くを見る必要がなかったりしたのか?」 「あ、はい・・・」 「それが原因だな。普通の目の薬を調合すれば軽くなるだろう。それは飛葉でやってくれ。以上だ」 「どうも」 椎名は腰を上げ、それにつられたように少女も立ち上がる。 さっさと戸から出ていった彼に続いて、少女は軽く会釈をするとぱたりと戸を閉めた。 ふいに見えた手首の痣が痛々しかった。 2007/04/10 |