岩室は淋しい。尋ねる人なんていないから。 来れば朝には物言わぬ骸になって、また淋しさが始まる。 毒娘 「あなた、マサキ様とおっしゃるのね・・・」 岩室の少女は、彼が入るなりそう言った。 弓張りの月は天高く、もう傾きかけてすらいる。 桜色の行灯が放つ朱色の炎が仄かに岩室を照らしている。 虫の声の大きさで静けさを認識する宵口。煩いくらいのその鳴き声以外に聞こえる音が何もない。 岩室はいつもと同じように静かで平穏だった。 その中で少女の声は虫の音を遮ぎることもなく、ごく自然に耳に届くと岩室の壁に吸収されて消えた。 「そうだけど・・・その様付けと敬語止めてくんねぇ? 俺別に偉くないぜ。歳だってそんな変わんないだろ」 「そう・・・なの?」 「あんた幾つ?」 「当主様の三つくらい下だと・・・」 自信なさげに少女が答えた。それを信じれば、柾輝との年齢差は二つ程度ということになる。 「やっぱそんなに変わんねーよ。だから呼ぶのも柾輝でいい」 「でも・・・」 「付けられる方が迷惑なんだよ」 「・・・わかったわ。では、柾輝」 少女が不安げな声でその名前を呼んだ。 言われそうなことは何となく想像がつく。というより、それしかない。 そして思ったとおり、少女はそのことを尋ねてきた。 「あなた、何故今ここに来たの・・・?」 「用事」 「何の・・・」 声が段々不安さを増していく。 考えられる数少ない可能性の中にある、最も起き得る最悪の可能性。それが想像されているのだろう。 「聞きたいことがあんだよ」 「私は何も・・・」 「その玲様に言われて来ても、か?」 「玲様に?」 少女が伏し目がちの顔を上げると、それに合わせて藍色の小袖が揺れる。 一緒に甘い香りが舞った。 いつ来ても薫る、少女を特徴づける香りだ。 「玲様は何と」 「岩室の娘について知りたいことがあるならこれを持って本人の所へ行け、そうすれば全て教えてもらえる、ってな」 柾輝は袂から赤い蝋燭を出して少女に差し出した。 朱色の光を浴びてその赤い蝋燭は一層赤さを増し、暗い丹色の一面を見せる。毒々しいほどのその赤さを見つめていた少女は、硬直したように動きを止め、瞬き一つせずに手だけのばしてそれを受け取った。 色を失くした唇が小刻みに震えている。 「岩戸は、開いているの?」 「来た時閉められたぜ。閂と一緒に」 「では・・・」 少女は蝋燭を見つめる。 「玲様は・・・あなたをお見捨てになったのね・・・」 誰にと言うでもなくつぶやいて、血色の蝋燭を握り締めた。 こんなものが、全てを左右するなんて。 唇を噛んで少女は震えを押し殺す。 「どうぞ。答えられることなら、何でも聞いて」 「・・・あんた、何したんだ? ここは一応牢の代わりだろ」 「そうよ」 息を吸って、覚悟を決める。 これは玲様の御命令なのか、それもよくわからない。 駆け引きならば首が飛ぶ。でも、誰かに聞いてほしかったから。 「人を殺めそうになったの・・・飛葉にとって大切な方を。まだ幼くて、何も判っていなかった時に。それが、ここに入れられた理由」 柾輝は黙って彼女の言葉を聞く。 言い切るまで止める気はないのか、少女は息をつく暇も殆どなく続けた。 「ここは贅沢な監獄。冬でも絶えぬ炎が与えられ、着物も何枚も頂けるわ。それも麻ではなく綿や絹のものを。囚人だからもちろん外に出ることは許されないし岩戸も内側からは開かない。人も訪ねてこない。けれども本も読めるし楽器も出来るわ・・・仕事をすることを条件に」 少女は蝋燭をゆっくりとかざす。 何も知らずに毎日灯していた、幼い頃。夜に人が来るようになった当初は力を知る為と言って使わなかったが、最近は仕事をする際必ず渡される。 だから、また毎日のように灯している。 甘い毒を吐き出す血色の蝋燭を。 「この蝋燭・・・・度々持ってきてくれたでしょう? 灯せば毒が昇るのよ。半刻で八分の一ほど燃えるわ。あの方の時はその位で殺めかけた・・・幼かった事もあるけれど。殿方なら三分の一ほどで死ぬのでしょうね・・・」 一刻半という時間。さっさと蝋燭を消してしまうことが多いからその効果ははっきりとわかるものではないけれど。 この蝋燭は人殺しの蝋燭だ。 「あの方ってのは翼か?」 少女は頷く。 飛葉にとって大切な方。当主の彼。 あの時は何も知らなかった。 「俺はここで死ぬわけか。・・・あんたは何なんだ?」 「私?」 ゆっくりと少女が顔を柾輝の方に向ける。 完璧なほどに整った顔がこちらを向く。 「私は・・・毒娘」 「は?」 怪訝そうな顔をする柾輝に少女は微笑む。 「毒で体を満たされた毒娘よ・・・仕事は私を夜伽とした殿方を殺めること。みんな私を抱いて死んでいったわ」 「それが名前か?」 「名前は・・・、と言うの」 言っては自嘲気味に笑い、「付けて下さった方はそんなこと微塵も憶えていないのでしょうね」と付け足した。 「解ったかしら? だからこの岩室には人が来ないの。来るのは私が殺すべき人だけ・・・私が出られるのも、戦場の敵を殺す時だけ・・・。昔私を知っていた人はみんな嫌ったし近付かなかったわ。でもその人たちもみんな死んだの。私が殺した人もそうでない人もいるけれど。私は毒娘。存在価値は・・・人を殺めるしかないわ」 一息で言って、少女は目を伏せる。視線の先には手元の赤い蝋燭。微笑んだ口元が覗いている。 「蝋燭を灯すわ。大丈夫、きっとこっちの方が楽に死ねる。私の為に・・・死んで?」 冷酷めいて告げた声が、聞いていてはっきり判るほどに震えている。 桜色の行灯を開けて蝋燭を灯し、燭台に立てると代わりに行灯の火を消す。そのの顔から笑みが消えたのが見え、刹那、柾輝は彼女を後ろから抱き竦めた。 「・・・っ」 「あんたを抱いても死ねるんだろ?」 腕の中でどうにか逃げ出そうともがくを押さえ付ける。すぐ傍にあるうなじは白くて香の匂いが一層強い。 「けれどあなたは・・・っ」 「」 短く言って、柾輝は耳元に口を寄せる。 「毒娘だろうと・・・俺はあんたが嫌いじゃないぜ」 ふっと彼女の体から力が抜けた。 2007/04/28 |