飛葉には秘密がある。
それは決して知られてはならない。
知った者には、等しく死を。





毒娘





とっくに昇って傾きかけてすらいる上の弓張り月。ぬばたまの夜は恐ろしく静かで、冷えた空気は時折刺すように痛い。

少女を降ろして馬を暫らく馴らしていた翼は、ようやく厩にそれを繋いだ。
目的の部屋に明かりが点いていることを確認し、彼は急ぎ足で長い渡り廊下を進む。
外の廊下は屋根しかなく、裸足で歩くと痛いほど冷たい。板に降ろした足も外気を切る足も、どちらも避けられぬ冷たさにかじかむような気がする。
畳の上と板の上は斯くも違うもので、寒くなるとそれが更に身に染みる。

外の渡り廊下の次は母屋の廊下。決して真っすぐ目的地に行くことは出来ないその道を決められた通りに進み、翼は明かりの漏れる障子の前に立った。
外から声をかければ、中から聞き慣れた返事が来る。
立て付けの良すぎるほど滑りのいい障子戸を開けると、行灯が月に負けじと光を放っている。

「呼ばれなくても来るつもりだったんだけど」
「あら、あの子を連れていったならそれは当然よ。桜上水の彼は何と言っていたのかしら?」

入るなり切り出された翼の文句を何ということなしにかわし、部屋の主人は反対に尋ねた。
翼はぶつぶつと口の中で何か言おうとしたがそれを止め、彼女の前の円座に座る。

「翼」
「何? 玲」

翼が座った瞬間にふわりと風が舞い、薫ったごく仄かな甘い香り。
玲はそれに眉をひそめる。

「・・・一緒に馬に乗せたりしてはいないでしょうね」
「まさか」

内心では冷や汗をかきながらも、努めて冷静に返答する。
心配される理由もわからないではない。翼が多少毒に対する耐性を持ったところで、いくら着物を通してとはいえ。
毒娘に対してはどれほどの意味があるというのか。長時間一緒に居たりすれば結局無事で済むわけではない。
また、翼が幼い頃にその毒によって死にかけているというのも更なる理由だろう。
結果的にはその経験が労せず翼に毒への耐性をつけさせたのだけれども。

「わかったわ。では、どうだったのか報告なさい」
「原因は不明だってさ」
「あら、そう」

心配どころか寧ろほっとしたように言う玲を、翼は不審なものを見るような目で見返した。
その視線に気付いたのか、玲が翼に微笑む。

「玲、もしかして知ってるわけ?」
「そう見えるのかしら?」

その口調からすれば確実に知っているのだろうけれど、どうやら簡単には言わないであろうということも同時にわかった。
今までの経験からすれば絶対にそうだ。
玲は傍から見れば意地が悪いのだと思う。

「それから? 敵陣で、あの子があなたの目の前で人殺したんですって?」
「そうだよ。あれは・・・肌そのもの、血液そのものが毒ってわけ?」

当然だとでも言いたげに玲は笑みを深くする。

「理屈でそうなるのかは知らないけれど毒娘だもの、そのくらいにはなってもらわないと困るわ。血だけではなく・・・今にあの子の何もかもが毒を帯びるのよ。それこそ肌も、髪も」
「そんなこと・・・っ」
「なるわ。だってあの子はもう人間じゃない」

――人間じゃない。
それはたった一言なのに、取り返しがつかない恐ろしさを孕んでいる。

「・・・っ!」
「座りなさい。まだ報告すら終わってないでしょう」

円座を蹴って立ち上がろうとした翼に玲の声が飛ぶ。
有無を言わせない口調に彼は渋々と従って再び腰を下ろした。
用事はまだ半分も終わっていない。

「目が悪いってさ」
「・・・あら」

その話は玲にとって予想外だったようで、声色が少し変わった。
翼にとっても予想外だったのだから当然といえば当然なのだけれど。
桜上水で不破に言われるまで全く誰も気付かなかったし、本人ですら何も感じていなかった様子だった。

「薬、どうする?」
「・・・調合はしなくて良いわ」
「なっ・・・」

どういうことだとでも言いたげな恨めしそうな視線をかわして、玲は面白そうに彼を見る。

「さて、報告はこれで終わりのようね。支障はないから安心したわ。・・・ところで翼、これ、どうかしら?」
「・・・は?」

玲が指差した先には、暗がりに沈む鮮やかな緋色。特に言わないでおいたが、障子を開けた瞬間から嫌でも目についていた。
座っている間も横目にちらちらと入っていたけれど気にしないようにしていた、見目麗しい錦の着物。大きさからすると打ち掛けのようで、それがつづらの蓋の上にかかっている。
金糸銀糸の刺繍は豪奢ながらも控えめな主張をしていて、所々を暗がりに隠しながら行灯と月のみの光で時に煌めいている。

「・・・婚礼衣裳に見えるんだけど」
「そうよ、格はかなり下げてあるけど、素敵でしょう? ・・・ああ、でも翼のじゃないのよ」
「当然だろ! それ女物じゃ」
「そうよね。ちゃんと翼の時には白で仕立てさせるから大丈夫よ」
「はぁ?」
「だって当主なのに柄物で婚礼を上げる訳にはいかないじゃない。赤の方が似合うとは思うけれど・・・」

――何のせいなのか、頭が痛い。
ここまで来ると何に文句を言えば良いのかさえわからなくなってくる。

つまり。
礼服のひとつである打ち掛けがここにある。
緋色の地、金糸銀糸の刺繍、絹の光沢。鮮やかな錦。それらから適当に当たりを付けて婚礼衣裳と言ったが、それは当たりだったらしい。
白、黒、赤はどれも正式だけど白が最も格が高く、赤は一番低い。もちろんこれだけの綺麗な赤を布に出すには相当な手間と財力が必要だけれど、しきたりに沿うならばそれは関係ないわけで。
つまり上流の北に入ろうとする人は赤は避けるわけで。

「結局誰の?」
「毒娘よ」

「新春の慶賀の際に武蔵森に行かせるから」と、玲は先程までの明るい笑みから打って変わって冷酷な微笑を浮かべる。

「無理だ、あそこは毒娘を使うより・・・」
「普通に攻めても埒が開かないわ。一度夜伽にさせればいいだけなのよ?」

だから、と玲は付け足す。

「あの彼も処分することにしたから。今は西の岩室の中ね」
「この・・・っ」
「だから行かないでちょうだいね・・・ってあなたに言っても無駄でしょうけど。薬は正解だったみたいね」

頭の痛さが度を超えてきている。冷や汗が出るほど頭に直接響いてくる。
苦しさに思わず倒れこむと、箱型の提灯を持った玲の姿が目に入った。

「ああ、それから」

思い出したように玲が言う。

「毒娘の名前は・・・でいいのかしら」

苦痛と恨みのこもった目で見上げる翼に微笑を浮かべ、玲は自分の部屋を後にした。
月は思ったより明るく、提灯は消しても問題ないかもしれない。

「あの子・・・なんて名前をどこで聞いてきたのかしら」

疑問は誰にも聞かれることなく消えていった。




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2007/05/19