動かない身体。
冷たい肌。
寝息も立てずに眠る人。
目を醒ますのはいつでしょうか。





毒娘





西の岩室に着いてすぐ、翼は鍵を持ってこなかったことに後悔した。
西の岩戸は鉄製の閂がささっていて、さらにその閂には同じく鉄製の重い錠が付いている。そして、それはいつも玲が持っているのだ。
しかし、その焦りは杞憂に終わったと岩戸に近づいた瞬間に彼は気付いた。
閂は確かにしっかりとささっていて、岩戸は動かせないようになっている。けれどもそこに取り付けた錠は開きっぱなしで、外から簡単に外せる状態となっていたのだ。

鍵を持っているのは翼と玲、二人だけ。
翼は昨日今日でこの岩室に来た覚えがない。
玲は鍵の掛け忘れのような初歩的な失敗を犯すわけがない。

しかしそれらを考え続ける余裕はなく、怪訝に思いながらも翼はもどかしそうに閂を抜いた。



開けた途端、流れ出てきた異様な空気に翼は顔を背けた。
慌てて冷たい外に向けて大きく息を吸い、呼吸を整える。

内部から流れてくるのは季節に相応しくない生暖かさ。むせ返るほどに甘ったるい匂いが籠もっている。
翼は袖で口と鼻をおさえると岩戸をしっかりと開けて岩室に踏み込んだ。


「そぼ・・・ふる、こさ・・・めの・・・はるる・・・を・・・また・・で」

岩室に入った翼を迎えたのは、不自然な温度と何度か嗅いだ匂い、それに小さな唄ときちんと横たえられた人間だった。
ぬるく甘ったるい空気は心地良さなど欠けらもなく、不愉快にまとわりついて気分の悪ささえ覚える。
白く薄い靄のようなものが岩室中に満ち満ちていて、視界を悪くする。

声を出すよりも先に、言葉を失くした。


「むす・・・べど・・あとなき・・・、ゆめ・・・じ・・に、似たり・・・・」

奥にゆらゆら揺れる炎。鈴を転がしたように澄んだ、哀しくて苦しげな声。どこか懐かしくも、覚えのない平易な旋律。

「弔いの唄・・・何でが・・・」

床に力なく座り込んだはうっとりとしたような微笑を浮かべ、開いた口からはとめどなく次の詞が流れ出てくる。
優しくも哀しい、死者を癒す弔いの唄。国ごと、地域ごとによく唄われる哀悼歌は違っていて、の唄は遠く神事が盛んな国ではよく唄われるものだ。
よりも唄自身の方が意志を以て奏でているようだった。


ふつりとは唄うのを止めた。訪れた静けさに翼はふと我に返る。
横たえられた人。半ば祈るような気持ちでその隣に膝をついた。

「・・・・マサキ・・・!」

すでに冷たくなっている彼に、翼は息を呑む。その様子を見ていたはさも愉快そうにくすくすと笑った。

「ねぇ・・・柾輝、動かないの。もうずっとこのままで、目も醒まさないのよ・・・」

ふふ、と力ない笑いが彼女の口から漏れてくる。
うっそりと浮かんだ彼女の恍惚の笑みに、翼は背筋が凍り付くような悪寒を覚えた。

「死んでしまったのよ・・・だって私が殺したんですもの。私が・・・」

は翼の方を見ようともしない。ただ、柾輝を見下ろして手を握っている。

橙の蝋燭の炎で、大きく輪郭のはっきりしない影が壁いっぱいに映っている。寄り添う彼女の白い襦袢がはだけていて、鎖骨や肌が見え隠れしている。
白い薄靄で弱められた光の中、のまとった藍色の小袖は暗く沈んで喪の色へと変わっていた。

寄り添う姿は静かに死を悼む姿も同然だった。
ただ、はだけてあらわになった白い肌とむき出しの襦袢、湛えられたおよそ穏やかではない笑みがその印象を与えない。

「殺したの・・・私が、私が殺したのよ・・・。どうして? 何で死んでしまったの? だって殺してしまったんだもの・・・それなのに」

うわごとのようにはひとり、何度もつぶやいた。
だんだん感情が高ぶるのか、少しずつ声が大きく、荒くなっていく。

「それなのに、どうして私は死なないの? 柾輝を殺しておいて、どうしてこうやって生きているの? 何で・・・」

顔に貼りついていた笑みが落ちる。

「何でこの蝋燭は、私を殺してくれないのよ・・・っ」
・・・・っ!」

白い手はゆらめく炎に向かってのばされた。
蝋燭はもう殆ど燃え尽きていて、どろりと融け続けた蝋が燭台に赤く溜まっている。
は火をつかもうとし、その手を翼はつかんで止めさせた。一連の衝撃で起きた風が蝋燭を勝手に消す。

一層強くなった甘い香りに気分が悪く、頭がぼうっとする。

岩室は真っ暗に近くなり、は呆然とした様子で座り込むと、くらりと翼の方へ倒れこんだ。
つかんだ手は氷のように冷たく、支えた体は熱い。息もあがっている。

「死んでしまった・・・初めてだったのに、彼が・・・」
「おい、・・・っ」

開いている彼女の目の前で手を動かしてみても瞳は動かず、涙すら流さないまま、苦しそうには口だけ動かしてつぶやいた。
とろんとした焦点の合わない目は、毒の作用と似ている。

さっき消えた、殆ど解け切っていた燃えかけの蝋燭。
気分が悪くなるほどの生暖かい風。むせ返るほど薫る甘ったるい匂い。
毒娘の体すら蝕むほどの、岩室に立ちこめた毒の空気。
それはここに入ってまだ数分と経たない翼の頭や体の感覚も段々と狂わせ始めていた。
がんがんと響く頭、反響する足音、思考するのも動くのも面倒になる。

――とにかく、外に。

を抱えてみて、体に力が入らないから背負うことにした。だるい体を叱咤しながら翼は岩戸へ向かう。

「愛してるって・・・毒娘だと言ったのに愛してるって・・・彼が初めてだったのに・・・っ」

首の辺りで呟かれた言葉を、翼は聞こえなかったことにした。




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2007/06/16