背中で聞こえた言葉を、聞かなかったことにしようと思った。 炎そのものに伸ばされた手を、見なかったことにしようと思った。 全てなかったことに出来るならどんなに良いかと、初めて思った。 毒娘 岩室を抜け出して、翼は枯れた草の横たわる地面に座り込んだ。 隣に座らせたは目を閉じ、固い岩に背を預けて荒い呼吸を繰り返しながらじっとしている。その座った状態を保つのさえも辛そうに見え、翼はの体を自分の肩にも寄り掛からせた。 襟元からのぞく肌とむき出しの白い襦袢が、薄暗い空に寒々しく映える。きちんと小袖を着させ直そうかとも思ったけれど、自分の体を動かすのももどかしい状態でそんなに器用なことは出来なかった。 夜明けが近い時刻とはいえ、空はまだ東側にうっすらと明るめの橙色が見える程度。 すぐに日は昇るだろうが、月も沈んでしまった以上夜と同じとしか考えられない。 これからどう動こうかと、取り敢えず考えることを試みていると遠くの方に赤い点が一つ見えた。 母屋の方向から現れたそれは、時折小さく揺れながら近づいてくる。 後ろにぼんやりと伴った、闇より濃い人の形。翼は内心で毒気づいた。 こんなにも図ったかのように都合よく現れるなんて。 最悪、だ。 翼は軽く身構える。 隣には殆ど意識のないがいる。それも翼の肩に体重を預けた状態で。 「やっぱりここに居て・・・あれほど言ったのにどうして聞いてくれないのかしら」 「・・・玲、何しに来たわけ?」 「ごあいさつねぇ。朝になったらあなたが居なくなっていたから捜しにきたんじゃない」 困ったように微笑む姿は、全く困っているように見えない。が浮かべる笑みとはあまりに違うと翼は思った。 「ところで翼、あなた顔色悪いわ。どうしたのかしら」 たいして疑問に感じているという風でもなく、玲は四角い提灯を翼の顔に近付けた。 燃える菜種油のにおいが鼻につく。 「・・・別に」 「そうかしら? 見た限りでは非常事態のようだけれど。毒娘も外に出してしまって。・・・あら」 わざとらしく玲がまわりを見渡す。 「あの翼につけた彼・・・黒川くんはいないのかしら」 「玲っ!」 思わず手が出そうになったものの、立ち上がる力さえなくてそれも出来なかった。 最初からわかっていたかのように、玲は表情を少しも変えない。 「いないのね。おかしいわねぇ、ここに来ると言っていたのに。それとも・・・」 くすり、と玲は笑みを浮かべる。 「もう死んでしまったのかしら・・・?」 「ふざけんなよっ!」 ふらふらのまま無理矢理立ち上がったせいで、殴りかかろうと伸ばしてしまった手は簡単に避けられた。当然足にも力は入っていないから、そのまま体勢を崩して倒れこむ。 受け身を取ってどうにか起き上がると、翼は玲を睨み付けた。 「何でマサキが・・・玲、何したんだよ!」 「何って? どうしたの?」 「どうしたの? それを玲に言われたくなんかないね、マサキを殺しておいて・・・!」 あら、といった調子でいる玲に、翼はイライラを募らせる。 主君と家来というよりも近しかった彼の死。 受け入れがたいという意識なんて見たときから消え失せて、悲しいという感情よりも玲への怒りのほうが先に湧いてくる。 彼女のその後の態度は、それをさらに増長させた。 「何を言っているの? 間違えないで、殺したのは毒娘。私じゃないわ。恨むなら彼女でしょう? 命じたこともないわよ。全てあの子が勝手にやったこと」 「勝手!? よく言えるよ、そうするように仕向けておいて!」 「翼、いい加減にしなさい。何を怒っているの?」 「何をっ・・・」 ふぅ、と玲が呆れたように深いため息をはいた。 彼女の朱色の着物の前で、下げられた提灯の蝋燭が不安げな光を出している。 顔のすぐ真正面にあるそれも目に入らないほど、翼は玲を真っすぐに見据えた。 「子供みたいに駄々をこねないで。あなただって本当はわかっているのでしょう? あの子は毒娘を知りすぎた。生かしておくのは危険よ」 「何が知りすぎたって言うんだよ!? 危険? 最初からその気だったくせに? しかもに殺させて・・・!」 「それの何が悪いのかしら?」 冷ややかに宣告されて、翼は再び言葉を失くす。 玲は、本気だ。 冗談ではなく、本気でマサキを殺した。 という毒娘を使って。 「秘密なんて、どこから漏れるかわからないものよ。飛葉の為なら、私は何でもやるわ。それに・・・」 玲が翼の横のを見下ろす。 「情が出来たら、両方にとって不幸なことでしょう?」 「自分の愛する人を殺すのは、さすがに毒娘でも思うところあったようね」と玲は楽しそうに笑みを変えてみせた。 もう、返す言葉さえも翼には見つからない。 じっと動かなかったが、「玲様・・・」と小さく漏らした。 冷たい空気は澄んでいて、静かだからとはいえのその程度の声でも容易に玲のもとへ届く。 玲はに笑顔を向けた。 「玲様は・・・この結果がご不満でしたでしょうか・・・」 「いいえ。十分よ」 「ありがとうございます・・・」 苦しそうな彼女の呼吸は、そこでようやく静まった。 2007/06/28 |