あなたのためなら、
いくらだって嘘もつけます。





毒娘





作り笑顔は得意だけれども、好きなわけではない。むしろ、それが必要とされる儀式めいたものが翼は大嫌いだ。
出掛ける時に一悶着起こした馬の装飾も、そのひとつだった。それは結局、玲にやり込められて従わざるをえなくなったのだが。

その嫌いな儀式めいたものである――今回は儀式めいているのではなく本当に儀式なのだが――新春の慶賀の儀が楽しいはずもない。
正装、朝貢、近況報告をかねての雑談。儀式を終えた後の宴ですら、親睦という名の腹の探り合いだ。前では、そんな状況どこ吹く風で、あそびめが楽器を鳴らし舞を踊っている。
桜上水からの客も当然いる。
桜上水どころか――名前も聞いたことのないような国も来ている。そんなものはたくさんあるのに、の姿はまだ見えない。
もう、客観的に見れば宴たけなわ、半ばを過ぎていて、出発した時刻を考えればかなりの時間が経過しているはずなのだけれども。

玲は知らん顔だ。


目の前を、慌てたように若い男が走りすぎていく。服装やちらりと見えた家紋、当主の渋沢に頭を下げる姿からするとこの武蔵森の家来の一人で、門兵か何かだ。そういえば、入る時に見たような気もしなくもない。

彼は何か渋沢に話し、それに渋沢がうなずくと一礼して素早く下がった。何が起きたのかと見ていると、入り口の鐘が大きく鳴った。
ひとつ、ふたつ。
客が来た合図だ。

妙な時間の来客に席が騒めきたち、また静まった。
扉が左右にゆっくりと開けられ、足音すらほとんどたてずにその客はまっすぐ当主のいる方向へ、数歩進みでる。
翼は、思わず声を上げそうになってそれを寸前で自制した。

女、だった。
少しばかり色が褪せ、糊が取れている若草色の壺装束を纏っている。左手に持った市女笠も、薄汚れているように感じる。
横顔だけが視界に映る。束ねた黒髪と白い肌がやたら目に焼き付く。
何回も見ているはずなのに、美しいと、それ以外に形容できないほど綺麗な娘だった。どこからともなく、ため息が漏れる。

「謹んで新年のお慶びを申し上げます。このような姿で参上致します無礼をお許し下さい」

膝をつき、頭を下げて彼女は言った。

「わたくしは遊芸をもって仕えることをしております。本日はこの武蔵森の御当主様がお立ちになられて、初めての春とお聞きしました。僅かながら、わたくしもお祝いをと思いまして参りました次第でございます」
「それは・・・願ってもないが。何が出来るんだ?」
「何がと申しませば、何でも」

下を向いたまま彼女は続ける。

「謡い物でしたら、小歌や箏曲、古いものでは今様も歌えます。語り物でしたら浄瑠璃、謡曲、琵琶。鳴り物も一通り致しますし、舞も致しましょう」
「舞・・・だな。そこでいいか?」
「ありがとうございます。お見苦しい格好で失礼します」

娘は立ち上がると、市女笠を下に置き、笑みを浮かべた。それからぐるりと辺りを見回して、帯から扇を取り出す。
一瞬彼女と目が合ったような気がして、翼は周囲に悟られないように慌てて目を逸らした。

「伴奏は必要か?」
「ある方がもちろんよろしいですが、なくても結構でございます」
「じゃあそこの者たちに・・・」
「それは」

止めた方がいい、と少女が口を開こうとすると、代わりに当主の近くに座っていた少年が耳打ちをした。
短く何か話すと、渋沢は「それもそうだな」と、うなずきながら小さく返事をした。それを聞いて、耳打ちをした少年が当主から離れ、一段降りて彼女に近づく。

「武蔵森の管絃を担当しています、笠井竹巳です。三味線でよろしければ、私が伴奏します」
「では・・・お願いいたします」

娘はにっこりと微笑んで扇を広げると顔の前にかざし、軽く床を踏んで音を鳴らす。それに合わせて笠井も三味線の弦をはじいた。
鈴を転がすような声で朗々と唄いながら、彼女は舞い踊る。くるりと回れば着物の袖がなびき、ふわりと甘い香りが辺りに漂う。ほぅ、と再び周囲からは深いため息がもれ、曲が鳴り響く間、幻影に包まれたような惚けた表情で皆が舞う少女を眺めていた。



「武蔵森御当主様」

少女の声でふと渋沢が我に返ると、目の前で彼女は正座をし、静かに頭を下げ、ゆっくり顔を上げた。正面にある真っ黒な瞳と目が合う。

「お付き合い頂きありがとうございました。それでは・・・これにておいとまさせていただきます。この武蔵森と当主様に善きことがありますよう」
「あ・・・いや、待ってくれ」

退出のことばを述べて再び頭を下げた彼女に、渋沢は思わず声をかけた。少女が顔を上げて見つめ返す。

「何か、いたらない点でもございましたでしょうか」
「いや、違うんだ・・・。君は見かけない顔だが、いつもはどこにいるのかと」
「わたくしが、でございますか?」

不思議そうに尋ね返し、少し考えるようにしばし黙った。いきさつを見守るように、周囲は息を潜める。
やがて間隔をあけて、彼女は口を開いた。

「定まった住みかなどございません。特にあてもなく、さ迷いながらこの唄と舞で暮らしています」
「一所に留まろうとは思わないのか?」
「・・・わたくしはどこでも余所者でございます。しかし、さるべくしてなっていること。夢でさえ望めば罰が当たります」

ほんの一刹那、彼女が淋しそうな顔をしたような気がした。しかし、もう一度顔を見るとやわらかい笑顔を浮かべている。しかし、その中にもどこか憂いを秘めたような切なげな笑みだった。

――まずい、な。と。竹巳は横目で武蔵森の面々と少女を見比べながら思った。
渋沢はこういう話に同情しやすい。その上、どうやら様子をうかがう限りでは同情どころでは済まないようだ。

「では・・・どうだろう。ここに留まるのは」
「ありがとうございます。しかし申し上げましたように、わたくしは余所者でございます。武蔵森に留まっても何もあてがございません」
「なら・・・言い方を変えよう。この屋敷に留まってほしい」
「しかし・・・」

少女は目を伏せる。

「わたくしにはもったいないほどのお話ですが、流れ者を留めると災いが起こるとも申します。ご迷惑はかけられません」
「そんなことはないだろう。迷惑なはずがない。ここで宴の時にまた参上すればいい。それでも駄目だろうか」
「・・・わかりました」

少女がまた前を見据えて笑みを浮かべた。
懸念した通りの結果に、竹巳は憮然とした表情を見せたが、ここで逆らうほどの立場はない。

「そのお話、お受けさせて頂きます」
「よかった。・・・そうだ、まだ名前を聞いていなかったが」

何と呼ぼうか、と渋沢が少女に促すと、少女はふわりと微笑んで答えた。

、と。名はと申します」



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2007/08/27