朝。
空が白み始めても、彼女は来なかった。





毒娘





――夜明け。
まだ太陽の光が少しも見えないくらいうちから動きだしていた武蔵森も、日の出とともに朝の儀が行なわれる。これを以て正式に国の一日が始まるのだ。
それに彼女が出席する義務なんて確かに全くない。彼女は当主の妻という立場さえ持っていないただの女であり、一介のあそびめに過ぎないのだから。

それでも当主に請われてここに入ったのなら通常は朝儀の前の音楽を担当しそうなものだし、何もさせずにそばに仕えさせていても何ら不思議ではない。
だから朝起きてから朝儀が終わるまでの間、一度も彼女の姿を見なかったことを笠井は疑問に思った。

それとなく聞いて回れば同じ疑問を持つ人は確かにいて。
辰巳が起こしに行くようにと言われたから、笠井もそれについていくことにした。

「ずるい、先輩ばっかりちゃんの部屋行って!」

どこで目ざとく見つけたのか、藤代がそばに寄ってくると口をとがらせて言う。
困ったように顔を僅かにしかめる辰巳の代わりに、笠井がたしなめた。

「ずるいもなにも、仕方ないだろ。さんが慣れるまでは辰巳先輩が面倒見るようにって言われてるんだから」
「だったらタクは!」
「俺は気になることがあるの」
「じゃあ俺だって!」

食い下がる藤代を横目で見ながら、二人は互いにため息をついた。
無理して断るよりは連れていってしまった方が早い。





やたら長い鶯張の廊下を、音を立てながら三人で進む。
主殿を抜け、いくつかの小さな院を通って、彼女の部屋は反対側。一番遠くて、その先には何もない場所。使用人の部屋さえ離れているような、人の来ない場所のはずだった。

「・・・え」

けれども、の部屋につながる直線の廊下に出た時、部屋の障子の前に見えたのは人の影。うつぶした状態で倒れている男が一人。

誰ともなく走り寄った。
廊下を塞ぐように倒れ伏した男の隣で二人は膝をつき、辰巳が彼に触れる。

男の着物は大きく乱れていて、表情は何か恐ろしいものを見たかのように引きつっている。
体は冷たく、固い。
頭は縁側のへり近くに置かれ、足はの部屋に半分入ったままだった。

足が吸い込まれている先、その部屋の障子が人の体ぎりぎりの幅くらい開いている。
藤代はためらうことなく、その障子を勢い良く引き開けた。

ちゃんっ!?」
「や・・・っ!」

藤代が上げた声と、部屋から聞こえたの叫びで、辰巳と笠井も振り返る。

部屋のほぼ中央の褥の上には、やはり大きく衣服の乱れた男が力なくうつぶして倒れている。
その男の体の下からのぞくと目が合った。

「こいつ・・・っ」
「誠二!」

部屋の男に飛び掛かりそうな勢いの藤代の着物をつかみ、笠井がそれを止めて代わりに部屋に入る。
倒れている男にさわると、こちらもすでに体は冷たくなっていた。


――外に倒れていた、あの男と同じ。

死んでいるのだ。


「・・・誠二」
「ん?」
「この人、とにかく動かすから」

今度はおとなしく入ってきた藤代が男の足をつかむと、「げ、」と表情を歪めた。
死人の感触というのは、何度見ようと何回触ろうと、体がそう簡単に慣れてくれるものではないらしい。
対象が生きていると思ってさわるのなら、それは尚更のことで。

狭い部屋でとりあえずその死体を隅に置くと、が緩慢な動作で上半身を起こした。

彼女の着物の方は、男たちよりもっとひどい。小袖を纏わず浴衣だけなのは良いとして、しかしその浴衣も身につけていると言って良いのか怪しいところだった。
帯は完全に解かれていて裾は大きくめくれている。胸元などはだけているどころではなく、肩や背中までむき出しになっている。

客をとった後のあそびめの姿。
けれどもそれが決定的に違うのは、通常なら客であるはずの男が死んでいること。

彼女は浴衣を着直そうと襟元をどうにか合わせたりしていたが、その手も震えているのが見て取れた。
浴衣の布で隠される前に見えてしまった、所々にある、傷だかわからない赤い痕が白い肌に映えて痛々しい。

裸体に近いと、彼女の泣きそうな表情と。
直視してはいけない気がして、震える彼女に自分の羽織をかけると藤代は目をそらした。一枚脱いだだけで、初春の朝の空気は冷たい。
笠井が「誠二」と短く名前を呼んだ。

「三上先輩を・・・あ、やっぱ辰巳先輩、三上先輩呼んでくれますか? 俺らが行くより良いと思うので・・・多分医殿にいます」
「・・・わかった。渋沢もここでいいな。連絡すれば確実に待っていられない」
「そうですね。大事にしたくないので、あまり動いてほしくはないんですけど・・・」

しかし彼の性質上、何かあったと聞いて次の連絡をただ待っていることなど出来ないだろう。特に今回は二人の死人が出ている上、渋沢自身が雇い入れた少女が関わっていそうなのだから。

「俺は?」
「誠二はこの外で死んでるのを、俺と一緒に中に取り敢えず放り込む。一応人の目気にしたいし。隣の六畳。先輩たちは・・・この部屋に入れて良いですよね?」

はその声にうなずくことも出来なかった。



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2007/10/03