冷たい空気と冷たい床。
裸の足とあわせの着物。
手にした鳶色の羽織は、とても温かかった。





毒娘





足袋を履かない足と着物に包まれない首筋には、冷たい空気が直に伝わってくる。わずかな身体の火照りは消え失せて、纏った小袖の上からも寒々とした風を感じる。

そう、寒い。

庭もまだ春になったばかりとあっては植物の芽も見えず、雪の中でも咲くという梅の古木の枝にも色は見えなかった。
音を立ててまだ冷たい北風の吹く中あるのは、温もりを待つ仮死状態の植物。
枯れた肌の木々、灰色の石、白い砂利。
屋根と木々の隙間から見える空だけが鮮やかに蒼い。


廊下に、人の姿はもうなかった。
一歩足を踏み出すたびに小さく鳴き声をあげる床に音を立てさせながら、は自分の部屋を通り過ぎた。
左手に、鳶色の羽織がひとつ。

――どうしよう。

どうやって返そうか。

彼の居場所など知るはずもない。けれども、宴席で前に座っていたから地位は決して低くないはずであるし、結婚していそうな雰囲気でもなかった。
ならば、どんなに遠くてもこの屋敷のどこかに部屋をもらっていて、それはきっと主殿を挟んで反対側のどこか、ということはわかる。

わかる、けれども。

そんなおおよその感覚しか持っていない状態で向こう側をふらふらするなんて、絶対に出来ない。誰かに確実に出会ってしまうのに。
たとえ明確な彼の居場所を知っていたとしても、きっと行かない、行きたくない。
余計な関わりはいらない。


「ぁ・・・」

視界の隅で開きっぱなしの障子をとらえ、は歩を止めた。
開きっぱなしと言えども開いている幅は精々の体の幅くらいなもので、それだけでは歩きながら少し見たからといって中の様子がうかがえるわけでもない。立ち止まってみても外に比べてその部屋の中は暗く、やはり何だかわからない影が見えるだけだ。

部屋主は、訪問者は、今いるだろうか。

けれども耳を澄ませてみても、風の音や枝のこすれ合う音、自分自身の足元が立てる鶯張の床の音に阻まれて中の気配までを聞き取ることは出来ない。むしろ、音が聞こえないのだから不在だと取るのが妥当かもしれない。
声をかければわかるのだろうが、にはそこまでする勇気もないしそもそもそんな気も起こらなかった。

「・・・どう、しよう・・・・・」
「・・・・何か用でもあるか?」

斜め上から振ってきた声にびくりと大きく体を震わせて、は左に顔を向けた。そして立っていた人物がたった先刻からこの部屋主となった人物であることに安堵し、同時に全く気付けなかった自分の不注意を軽く呪う。
歩けば必ず軋むこの廊下、その音にすら気付かなかったなんて。

大声こそあがっていないものの、体全体で露骨に驚いていた彼女に多少の罪悪感を感じながら、辰巳は同じように一言「どうした」と尋ねた。彼に顔を向けたまま硬直していたは、そこでようやく視線をずらして口を開く。

「あの、上様、は・・・」
「渋沢なら、あの後すぐ戻っていった」
「あ・・・」

そうですか、と小さく続けては視線を落とした。

もしまだいたなら、頼めるかもしれないと思っていた。彼ならきっと何も言わず、引き受けてくれる気がしたから。
武蔵森に来てからまだ二日目。の方から何か言える相手などいないに等しい。

「では・・・いいです、すみません」
「何か、部屋にでも問題があったのか」
「いえ、違うんです。・・・お礼を」

口に出してからふと思い出した。
まだ、私は彼にお礼の言葉すら言っていない。望むままかどうかはともかく、これだけのことをさせておきながら。

「すみません、お時間とらせました」
「いや・・・なら渋沢に、探していたと伝えておこうか」
「いえ、今日中にお会いできると思うので・・・」
「・・・本当にいいのか?」

頭を軽く下げたに、辰巳がもう一度尋ねた。
何が、と無意識のうちにが目で問い掛けると、彼はゆっくりと続ける。

「いや・・・それだけじゃないと思ったんだが、それでいいなら構わない」
「あ、あの・・・っ」

左手にかけた鳶色の羽織。きびすを返そうとしていた辰巳を引き止め、それを両手に持って、は前にさしだした。
彼女の頭より遥か高いところから降ろされる視線を感じる。

「これは?」
「今朝方お借りしたもので・・・」
「・・・ああ、藤代のか」

藤代。
昨日の祝宴で確かに聞いて、今朝も多分耳にしたはずのその名前を反復する。

「藤代・・・誠二様、でいらっしゃいますか。あの、」
「朝、笠井と一緒に来ていたうるさい方だ」
「あ、はい・・・」

記憶から探り当てた名前は正しかったようで、それに少しだけほっとする。

「これを・・・その誠二様に返して頂けますか?」
「構わないが・・・自分で行かなくていいのか」
「どこにいるかも存じませんし・・・お会いできるかわからないので」

それに、会って関わり合いになりたくないから。これ以上の縁を持ちたくないから。は心の中でつぶやく。
昨晩の祝宴の様子の限りでは、渡せば終わりとは帰してくれそうにない。

「お願い・・・してもよろしいでしょうか」
「わかった。預かろう」
「・・・ありがとうございます」

茶褐色の布が手から離れる。
その重さを失った手にあたる風は、春なのにやっぱりまだ冷たかった。



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2008/03/26