空は快晴とは言えないものの、薄雲を通したやわらかい光は十分に明るい。 けれども、その庭に植えられた木々は冬のように固く閉ざされ。 草もまた、春の息吹を伝えてはいなかった。 毒娘 「ちゃん!」 「・・・・・・っ!?」 ふいに聞こえた自分の名前に驚き、ためらいつつもはその方向へ顔を向けた。 視線の先、そこには並んだ二つの人影がある。だんだんこちらにやってくるそれが誰であるのか思い出そうと、は目を細めた。 を呼んだ声は確かに聞き覚えがある気がするのだが、それを覚えていられるほどに長くは武蔵森に滞在していない。二人のうちどちらが名前を呼んだのか、それもわからない。 は判断しようとするのをやめて、再び庭先に目を向けた。 「え、無視するのはひどいっしょ!?」 すぐにまた降り掛かった声は、ひとつ前のよりもずっと近い位置からだった。 無視も何も、相手が誰だかわからないのに対応できる器用さを持ち合わせていない。仕方がないことなのに、と思いつつもが庭を見つめたままでいると、視界の隅から急にぬっと手が出てきた。 反射的に手が出てきた方向を見上げる。 「・・・誠二・・・様?」 「あれ、もしかして今気付いた?」 が小さく肯定の返事をすると、藤代が「え、」と表情を変える。 「まじで? 俺忘れられてた!?」 「お前みたいなうるせーの、この女に限らず憶えてたくねーよ」 「三上先輩それひどくないすか!?」 当たり前だと言わんばかりの返事に藤代が噛み付き、いつものこととばかりに再び三上がそれに応じた。 その光景には一瞬呆気にとられたが、恐る恐る声をかける。 「・・・あの?」 「なにー?」 一連の行動を中断し、機嫌よく答えたのは藤代の方。人懐っこい笑みを向けてくる彼に、は少しばかりの戸惑いを感じる。 「こちらには、どうして?」 「あ、三上先輩が向こうの畑に用があるって言うから連れてこられた」 「てめーは勝手についてきたんだろ!」 「まあまあ。あ、こっからだと見えないんだけど。そういえばこの庭なんにもないね」 ぐるりと視線をめぐらして藤代は言った。 「ほら、梅だってつぼみもあんまないし」 「梅・・・ですか?」 「あ、花咲いてないからわかんないのか。ほら、左の方にあるちょっとおっきめの木」 藤代が庭の右よりに植えられた古木を指差した。その木を見ようと、は目を凝らす。 木は遠目に見ても不恰好だった。枝は横に伸び広がり、時折払われて途中で寸断されている。隠す葉も飾る花もまだない木は、粗い肌がむき出しになっている。ただ、幹だけは太くずっしりとその場に構えていた。 「つぼみ、まだ固いから満開は今月の終わりくらいかな」 「はぁ・・・」 藤代の言う固いつぼみはまったく見えない。つぼみどころか、伸びる枝の形さえ曖昧だ。 「・・・ぉぃ・・・おい、聞こえてんのか?」 「ちゃん!」 「え? あ・・・はい、すみません・・・ぼうっとしていて」 肩を揺すられてふとは我に返った。目の前には藤代の不安そうな顔がある。彼の目は真っすぐに向けられていて、その瞳の中に自分が映っているのを見る。 は即座に目をそらした。 「大丈夫? なんかすっごい一ヶ所にらみつけてて、なんかあった?」 「え・・・?」 考えようもなかった問いには目をしばたたかせる。 「そんなことは・・・」 「目、わりぃんだろ」 「ぁ・・・」 三上の言葉に、は小さく声をもらす。 「心当たりあるみてーだな」 「あ、いえ・・・」 「本当か? 無意識らしいけど、遠く見る時目細めてるぜ」 指摘されては押し黙った。確かに、言われて気付けば目の辺りが弛緩したような気がする。つまり、それまでは確実に力が入っていた。 心当たりと言うわけではないが、確かに目のことを昔、別の場所で指摘されたこともある。 「ちゃん見えないの!?」 「いえ、そういうわけでは・・・」 「え、でも悪いんでしょ、大丈夫?」 「あの・・・」 が答える間もなく、藤代が次々と尋ねてくる。その向けられてくる真っすぐな視線と言葉が、どうしようもなく居心地が悪い。 助けを求めようとしたわけではないけれど、藤代から目をそらすと三上の方と目が合った。 「・・・んだよ」 「あ、いえ・・・」 視線をずらして地に落とす。藤代が何事かをまだ喋っていた。 「うっせえ・・・おい、お前下ばっか見んな。手元見んな。遠く見ろ」 「え、あ・・・はい」 「目の薬ってのは存在しねぇんだよ・・・」 「え、そうなの?」 え、とが問い返したのは藤代の同じような返事でかき消された。それを三上が横目で見て、面倒臭そうに言う。 「だからてめぇは黙ってろ。少なくとも俺は作れねぇよ。・・・飛葉の椎名とか・・・あと桜上水の変な奴なら作れるらしいけどな。効き目は知らねーけど」 三上が返事を求めるように視線を投げる。その意味に気付いてはあわてて首を振るとうつむいた。 「いえ・・・今のままで不便ではないですし・・・」 「ならいいな。っつーわけで行くぞ」 「え、どこにっすか?」 藤代の言もない返事には一瞬耳を疑う。恐るおそる首を動かし、ゆっくりと三上を見上げると、予想どおり彼は表情を引きつらせていた。 「てめぇ・・・何のために出てきたと思ってんだ!」 「え? ・・・あぁ!」 気付いた藤代が声を上げた。 「そうだ、薬草・・・ちゃんごめんねー、また今度来るからね!」 「あ、はぁ・・・」 曖昧なの返事を最後まで聞いた様子もなく、藤代は三上を引っ張って庭を横切っていく。 庭を出る直前に彼が手を振ったように見えたけれど、手を振り返して答えるのが何故かためらわれた。 2008/04/07 |